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  • 執筆者の写真みずき書林

marshallese songs 2


昨日の続き。

なぜ、陽気でゆったりしたマーシャルの歌に、少しばかりの切なさを感じるのでしょうか。

たとえば、「コイシイワ」という曲があります。

この一連の音楽のなかでも、もっとも印象的なもののひとつです。


コイシイワ アナタワ

イナイトワタシ サビシイワ

ハナレル トオイトコロ

ワタシノオモイ タタレテ


たどたどしい歌詞です。

日本語を学んだマーシャルの人が作ったとされる曲です。その人の知り合いのマーシャル人が日本人に恋をしていて、でも戦争がはじまってその日本人は帰国することになってしまい、その別れを歌った失恋ソングです。

たしかに、歌詞を追えば、単純な別れの曲です。しかし、別の解釈も可能です。

つまり、遠いところに隔たってしまったマーシャルの人たちと日本の人たちの関係を、比喩的に歌ったものととらえることも可能です。もちろん作曲者にはそんな意図はなかったでしょう。ただ、この歌ができてから何十年も経ったいまは、そういうふうに聞くこともできる、ということです。

(誤解がないように書き添えておきますが、僕はあくまでマーシャル人と日本人の〈人〉の関係として解釈しています。マーシャル諸島共和国と日本という〈国〉の関係ではありません。これは似て非なることだし、「サビシイワ」という気持ちが向かう先のことを考えても、大事なポイントだと思います)

マーシャルという、正直に言ってあまり関心を持たれることもない、とても遠くにある場所に、日本語の失恋ソングを日常的に歌っている人がいる。ということを、知っておきたいと思います。

のんびりした、明るいメロディの曲です。とても覚えやすい。先述の通り日本語としては助詞の使い方がおかしいし、実際に聴いてみると譜割が無理やりなところもあります。でもだからこそ、日本人の恋人を思って、その人のことばで作詞をしたマーシャル人の思いが伝わってくるようです。

個人ではどうしようもないことが起こって、思いだけが歌になって異国にしっかりと残っていました。多くの人がそのことを忘れ去っても、歌は何十年も歌われ続けていました。


話は少し変わりますが、僕にはインド人とドイツ人と中国人の親戚がいます。

その人たちの顔を知っていて、名前を知っていると、どこの国の人であるかはもう関係なくなります。より正確に正直にいうと、そういう人を知ってしまうと、その人が属している国のことまで含めて、嫌いにはなれません。国の政情や歴史などはいったん背景に遠ざかって、顔と名前が、交流して理解しようというベースになります。

歴史や国情について知るのはとても大切なことです。でも、そういうことを学ぶのは相手を知ってわかりあいたいからだとするなら、知識量だけではなく、相手の名前を知っていて、具体的な顔を思い浮かべることができるかどうかは、わかりあいたいという希望の底を支えます。そういうつながり方を前提にしたほうが、豊かな関係を築けるような気がします。


僕にはマーシャル人の直接の知り合いはいませんが、彼らの歌を聴いて映画を観ることで、彼らにも名前と顔があって、つながりがあることが感じられます。もし道でマーシャルの人に会うことがあったら、親切にしようと思えます。

そんなことを思わせてくれる、フレンドリーな音楽です。


映画『タリナイ』では、日本人とマーシャル人が一緒にマーシャル語の歌を歌う場面があります。

作中でも大事なシーンのひとつですが、その歌詞もここで書いたようなこととゆるやかにつながっている気がします。

とてもいい詞なので、ぜひ聴いてみてください(ネタばれというほどのことではないのですが、実際に曲を聴きながら知るほうがいいに決まっているので、ここではその詞は書きません)。

iien emman

と呼ばれている曲です。

emman はマーシャル語で、goodを意味することば。円満。

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