『戦争社会学研究6 ミリタリー・カルチャーの可能性』見本が完成してきました。
目次など詳細は上記リンク先をご覧いただくとして、ここでは個人的な思い入れを。
今号の第2特集「戦争体験継承の媒介者たち――ポスト体験時代の継承を考える」では、前職時代から懇意にしている根本雅也さんが企画者となり、『なぜ戦争体験を継承するのか』でご一緒した方々を中心に構成されています。
そこに大川史織さんが加わり、ぼく自身も末席を汚しています。
この特集内で、たとえば、第五福竜丸展示館の市田真理さんの論考を中心に据えてみます。
マーシャル諸島でのビキニ事件を介して、市田さんは言うまでもなく大川史織さんとつながります。
そして「バトンリレー」への疑念という点では、僕のエッセイともつながっています。
そして清水亮さんは小社のフリーペーパーとブログを引用下さり、それは保苅実への言及とつながっています。
保苅実は、大川さんがその著書のなかでたびたび影響を受けたと語っている研究者です。
さらにいえば、清水論文で触れられている無言館については、つい先日、大川さんを含む仲間たちと、『無言のまにまに』という芝居を観てきたところです。
以上を一例として、図らずも、本を読む喜び・楽しみのひとつである複数の視点のシンクロや連関が仕掛けられている点は、気に入っている点です。
そして同時に、その仕掛け人である根本さんが言うように、
「「語り尽くされた」と思われるかもしれない、体験者の〈立場〉を検討していくことは重要な課題であり続ける」
という点も考え続けないといけません。
というのも、現実には戦争が再び起こっており、「ポスト体験時代」はアジア・太平洋戦争に限ったドメスティックな視点であるからです。
だからこそいま、「体験していないこと」「未経験という経験値」はいよいよその重要度を増しています。というよりも、増していくべきもののはずです。
「体験していないくせに何がわかる」とは、従来しばしば、有無を言わさぬ体験者の優位性を確立するために言われてきたことです。
しかしもしかしたら、この問題に限っては、われわれはその価値観を反転させて、「体験していないという体験」の貴重さをこそ確立させるべきなのかもしれません。
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