新刊『なぜ戦争体験を継承するのか』の情報を版元ドットコムにアップしました。
そのサイト内に「版元から一言」というコーナーがあります。
一言。どころではない分量になったのですが、同文を以下に掲載しておきます。
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なぜ戦争体験を継承するのか。
歴史記憶の継承に関心を持っている人にとっては、けっこう挑戦的なタイトルかもしれません。
これまでは、
どのようにして戦争体験を継承するのか。
ということが問題の中心であったと思います。
戦後70年以上が経って、経験者がどんどんいなくなりつつあります。
いずれやってくる〈体験者不在の時代〉に再び体験者を生まないために、どのようにして過去の記憶をリレーしていけばいいのか。
従来型の問題はこのようなものだったと思います。
「なぜ」は自明のことであり、問う必要のない前提でした。
もちろん「どのようにして」という問いは今でも有効です。
しかしいまは、それよりももっと根源的な「なぜ」を問わざるをえない状況にあるのかもしれません。
本書「序章」で、編者のひとり蘭先生は以下のように書きます。
「ただ単に「戦争体験の風化」に抗する継承実践を掬い上げるという従来型の問題設定ではない。本書は、戦争体験の〈忘却と想起〉というより包括的なフレームにもとづき、それぞれの対象に関する考察と紹介を行うものである」
そして続けて、83人が集団自決した沖縄読谷村のチビチリガマが一部の若者の間で心霊スポット化されて荒された、2017年の事件を紹介します。
呼応するように、今野先生の「終章」では、旧日本軍の軍服や軍帽などの遺品がネットオークションに流れ、それらを着用したサバイバルゲームが行われていることが記述されています。
「なぜ」という問いはもはや自明ではなく、その状況はこれからさらに進んでいくかもしれません。
本書では、6本の研究論文を収める第1部に、遊就館やwam、広島平和記念資料館、長崎原爆資料館など15の主要な平和博物館を紹介する第2部を合わせています。
そして詳細な平和博物館・戦争関連展示施設のリストと、今後の研究のための長大な参考文献一覧を付しています。
さらに、異様なまでの力がこもった序章と終章がそれらを包みこんでいます。
この本を編集してあらためて気づいたのは、保存と展示を担う博物館はもちろん、研究・学術もまた、〈実践の現場〉であるということです。
研究者というと、対象を観察して考察をするだけの、なにか傍観者のような存在と捉えている人もいるかもしれません。
しかし本書を読めば、研究者とはきわめて重く深いかたちで対象にかかわりつづけ、そのなかで自分を更新し続ける実践者であることがよくわかると思います。
ある著者は広島の原爆を描く高校生たちを追いかける過程で、自らのトラウマを克服していきます。当初は情報収集のために参加していた戦友会に深くコミットし、その終焉をみとることになった執筆者がいます。空襲体験の聞き取りをしていた若い著者は、体験者の語りを通して自分自身も大きく変わっていくことに気づいていきます。
アカデミズムは、そして博物館は、「なぜ戦争体験を継承するのか」という根本的な問いに、どのようにこたえようとしているのか。
当初の想定を大幅に超えた大著になりました。
いまこの問いに向き合うためには、こういう質量が求められていたのだと思います。
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