“ただ少し思うのは、私がいつかそこに行くとき、じいちゃんがいるなら嬉しい。多分そこはまた異文化だけど、これまでよりほんの少しだけ怖くなくなった” ――藤岡みなみ(『パンダのうんこはいい匂い』より)
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ちょっとヘンなことを書くかもしれない。
彼女がいなくなったという最初のショックが時間を経て少しおさまったときに、なんだかまた智秋さんに会えるような気がしてきた。という話なんだけど。
我ながらスピリチュアルな感じでどうかと思うが(笑)。
でもごく正直に書くと、いつか近いうちにまた、智秋さんと会えるような気がしています。
もちろん、僕はかなり現実主義的というか狭量なところがあって、死んでしまったら、あの世も天国も地獄もないと思ってます。
これまで、見えないものは信じてきませんでした。
でも、なぜか、どこだか知らないけれどまた彼女に会えるんだと、なかば本気で考えて、安心しています。
智秋さんくらい、僕の前でよく泣いた著者はいません(笑)。
だいたい会うたびに一度は泣いていた気がします。
でも泣いた後はかならず笑っていました。
彼女の全体の印象は――彼女を知る人がみんなそう言うように――とても明るく暖かいものです。僕の友人のひとりは彼女を「好感の塊」と評しました。
そんな彼女が、どこであれ、そういつまでもめそめそと悲しんだり嘆いたりしているわけがないと、思っています。
ひとり旅をこよなく愛しながら、友人や人間一般をとても大切にしていた彼女ですから、ちょっと目を離したすきにひとりでどこかに行っているだけのような気がするのです。またそのうちかならず帰ってきそうな。
そんな智秋さんですから、どこかでひょっこりまた会えるような気がするし、どこであれまた智秋さんに会えると考えると、悲しみや恐れがちょっと癒えるのです。
もう二度と会えないことと、どこかでまた会えるかもしれないこと。
その両方の可能性を考えたときに、後者のほうがはるかに容易に信じられるのです。
だから、先のブログで書いた後半部分は、よくある別れのことばではありません。むしろかなりの実感を込めた、再会の約束です。
我ながら実に不可解な感情ですが。
この人生では、〈いま・ここ〉という感覚が重要視されます。
我々は〈いま・ここ〉という時空を共有することで、顔の見える相手として出会い、人生のなかで大切だと思われるなにかを分かち合います。
しかしその一方で、僕のなかで〈いまではない時・ここではない場所〉に対する意識が生じつつあるようです。
――お気づきのとおり、僕は智秋さんのことを書きながら、自分のことも考えています。
智秋さんの死を思うたびに、深い悲しみを感じます。
でもいっぽうで、彼女は死に対する恐れの幾ばくかも、たしかに取り除いてくれました。
すごく寂しいよ。
でもまたにこにこしている智秋さんに会えると思うと――そんなことはありえないなんて言わないでほしい――気持ちがたしかに少し軽くなるのです。
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