うまく書ききる自信がないが。
ルールや規則やガイドラインを作るのは必要なことだろう。
また、たとえば訴訟といったかたちで、SNSでの発信というかたちで、問題をパブリックにして問うていくことには、とても大切な意味がある。
でもハラスメント問題を解決するための(起こさないための)最終的なところでは、人と人との関係がもっとも重要になる。
突き詰めればきわめて属人的な、相手を受け入れて理解しようとする個人の努力がなければ、ルールや規則という事前的な措置であれ、訴訟という事後的な解決法であれ、外部からのコントロールで変えられることは少ないのかもしれない。
かつて僕は会社員をしていて、そのころの上司を「腹が立つこともあるけど、なぜか憎めない」と評したことがある。それが上司と長い付き合いがあった著者の耳に届き、予想外の大絶賛・大賛成を受けたことがある。
あのころ、僕が属していた組織にはいろいろと問題があり、いまそれを全面的に肯定するつもりはない。でも「憎めない」関係を築き合っていた人たちにとっては、ある意味では居心地がいい環境だったのもたしかだ。
最終的に僕はその会社を離れたが、そこにいた16年間、ときに反発しながらも上司と互いに「憎めない」関係を築いていたのは間違いない。その上司は、苛烈で酷薄なところもあったが、それでも最終的には愛嬌と土壇場の笑顔で収めていくことができる、良くも悪くも〈オヤジ〉的な人物だった。彼に口が利ける社員は限られていて、何を言うかよりも誰が言うかが重要であった。
そしてだからこそ、そういう関係を築けなかった人のなかには、難しい立場に立たされて会社を去ることになった人もいた。そういう人にとっては、愛嬌など微塵も感じられない、恐ろしい相手だったと思う。
誤解がないように言っておくが、いまになって過去の職場環境を云々するつもりはまったくない。ただ、会社や組織というのは、多くの場合、そのような関係性の理論で動く、ということだ。
平たく言えば、ふたりの人間のうち片方が「さっきは言いすぎた」「悪かった」ということばを発することができて、もう一方がそれを素直な気持ちとして受け入れられるかどうかだ。
それは、相手がいま・ここにいる――もしかしたら、いま・傷付いて・ここにいる――ということを理解できるかにかかっている。
小さな組織のほうがそういう関係が顕在化しやすいとは思うが、とはいえ上記の僕の例は何も特殊なことではなく、すべての組織・集団は、煎じ詰めれば個別具体的な人間関係の集合でできている。
毎日直接顔を合わせる具体的な相手と信頼関係が築ければ――少なくともお互いに「憎めない」関係が築ければ――日々はそれなりに回っていく。それどころか、上が本来守るべきルールや規則を逸脱したとしても、日々のなかでその軋轢を回避したり、さらには下が率先して糊塗することすら起きる。
なあなあの関係、といえばそうなのかもしれないが、少なくともそこには〈相手を否認しない〉というベーシックな関係がある、はずだ。し、あるべきだ。
たぶん僕は、ある種の人びとから「情緒的過ぎる」「日本的過ぎる」と非難されるようなことを書いているのかもしれない。
属人性を排して誰にでも適用できるルールと規則を固め、ゆえに誰であれ代替可能な組織を作るのが原則だという意見も、理解できる。そういう仕組みを作ることには賛成する。
でもそれは、僕の意見では、あくまで原則でありスタート地点に過ぎない。
それは「自殺するくらいならなぜ学校を/職場を辞めないんだ」というのにも似ていて、われわれの個別具体的な人生は、人間関係は、そういう言い方で一般化できないことのほうが圧倒的に多い。
具体的な相手が、個別的な自分の前に、たしかにいる。それが恐怖の対象であった場合、そこから逃れるのには、いまの暮らしを一変させるほどの覚悟と勇気がいる。
われわれの社会は、個別具体的な、一般化不可能な人間関係が大量に寄り集まった束のようなものでできている。と思う。
僕とあなたの関係は、あなたとあの人の関係とも、あの人と僕の関係とも違う。すべての人間関係は、それぞれに単独の特殊事例といってもいい。
だから、ルールや規則で一般論化するよりもいっそう、その関係を構築する人間同士の人間性が重視されざるをえない。
そして、会社組織をはじめとして、何らかの目的を共有する機能集団であれば、とりわけ、上に立つ者の人間性がきわめて甚大な影響を及ぼすことになる。
人間性・キャラ・配慮・立ち回り方・思想。なんと呼んでもかまわないが、つまるところ、上に立つ人間が相手の存在を肯定する気持ちを持っているかどうかだ。さらに言えば、下の人間にとって、それが単なるポーズや場当たり的な懐柔策ではなく「あの人にはたしかに、わたしがいま・ここにいると理解している」と認められるものであるかどうかだ。
順番としては、まず上が下を尊重することから始まらなければならない。まず上が下を理解して、はじめて下が上を認めることになる。持っている力に差がある以上、この順番は変わらない。
(上とか下とか、そういう言い方自体に引っかかる人もいるかもしれないが、雇用/被雇用はもちろん、肩書・年齢・性別・職歴・性格、そういったものが上下関係を形成していくことは言うまでもない。上下関係はたしかに生じる。これもまた原則だ)
これも前職の話だが、僕は上述の上司から、社長の肩書を預かっていたことがある。
僕は基本的には温厚で物分かりのいい上司だった、と自分では思っている。
でも、憶えているだけでも一度だけ、後輩に酷いことばを投げたことがある。
あれから何年も経った今でも、そのことを詳細に書く勇気はまだない。
相手のデスクの脇を通り過ぎざまの、普段の会話の延長としての、冗談としての発言だった。でもそれは冗談として許されることばではなかった。そのときは自分が何を口にしたのかまったく気付かずに通り過ぎた。ずっとずっとあとになって、相手がそのときどんなふうに感じていたか、それからずっとどれだけ腹立たしく悲しく感じていたかを教えてくれた。
そのことを思い出すたびに、心が暗く沈む。
相手の尊重とか人間性の肯定とか、いかにもありきたりなことばにしかならないのが悔しいが。
相手がいま・ここにいることを理解しそこなうなら、すべては終わる。
個別具体的な存在として、いま目の前にその人がいて、自分と一回限りの関係を取り結んでいる。
相手に対するその理解は、失われてはならないのだと思う。
重ねていえば、この〈その人がいま・ここにいる〉という理解は、生身の対面関係だけではなく、ネットの世界にもとうぜん当てはまる。
公正さや多様性をもとめて訴えが起こされたときに、訴えられた側がネットリンチにかけられて社会的に抹殺されるということが、いまや頻繁に起こっている。検証もされないまま、野次馬的な第三者の集団によって、その人は過ちを償う機会すら与えられず断罪される。そういう人物は徹底的に叩いて破滅させてもいい、ということになっていないか。
いうまでもなく、ハラスメントや差別は看過されてはならない。だが(と書いて、「罪なき者、石もて打て」ということばや魔女裁判や密告制度や焚書や隣組制度やらを思い出す。ネット社会は比較的新しいとはいえ、相互監視はなにも今に始まったことではないのだが)、それにしても、罪に対する寛容さとは何か、そろそろ立ち止まって考えてみたい気もする。
同時に、声をあげた側さえもが好奇の目にさらされ、そういう体験を乗り越えてもう一度やりなおそうというときに、ある種のクレイマーやモンスターエンプロイーのような扱いを受けることさえ起こりうるのではないか。セカンドレイプという、実に気が滅入るようなことばもある。彼ら彼女たちの勇気が正しく報われ、いま感じているであろう不安や恐怖が鎮められるには、どのようなかたちがありうるのか。
最初に危惧した通り、やはりうまく書けなかった。
自分がハラスメントを受ける側になるかもしれないこと。
もっとも恐ろしいことに、加害者になる可能性があること。
ネットリンチに加担するかもしれないこと。
すべて自分ごとであると思わないといけない。自分自身がそうなるかもしれないという恐れのために、推移を見守っている。
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