「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです。各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです」(フランクル『それでも人生にイエスと言う』春秋社、32頁)
「人生に意味はあるか?」という問いに対して、フランクルは重要な発想の転換として、「自分が人生に何を期待しているかではなく、人生が自分に何を期待しているかを追究しなくてはならない」と応答しています。
上記はそれに関連して、フランクルが仕事について述べた個所です。
(ここでいう「仕事」とは、いわゆる金銭を得るための労働のことでもあり、それ以上に、その人がやるべき・なすべきことという意味もあります)
自分が人生に何を期待できるかではなく、逆に生きること自体が自分に意味を問うている。という発想の転換は、『夜と霧』を初めて読んだとき以来、大きな衝撃とともに印象に残っています。
とくに病気になって以来、この考え方はより強く心に響いています。
病になったことを、この人生に対して、文句をつけてみてもしかたがありません。そうではなくて、病とともに生きることを課されたいま、僕自身の人生が僕を見つめ、僕になにかを期待していると捉えること。そこに、それでも前向きに真摯に生きる契機があるように思えます。
ゆえに、問われている状況は常に具体的で、一回かぎりで、いまこのときにかかっているということになります。僕の人生の問いは、僕自身だけのものだということです。
茫漠と誰にでも適用できる「生きる意味」を問うても意味はありません。おそらく、そういう意味で万人に合致する「生きる意味」というものはありません。それは常に具体的な自分だけのシチュエーションにおいて、各人がそれぞれに見つけなければならないものなのでしょう。
40代でシビアながんに犯されているひとり出版社の「生きる意味」と、たとえば、恵まれない家庭環境の中で苦学して地方の公立大学に通って社会学を専攻している女学生とでは、それぞれに「生きる意味」が異なって当然だということです。
というわけで、僕は常に自分だけで、この個別一回限りの人生の場面のなかで、自分の生きる意味を見定めていかないといけません。
それはしかし、いまのところ、それほど困難な課題ではありません。
僕にはやりたい仕事があります。大事にしたい人間関係があります。このふたつが、僕自身の生きる意味を提供してくれています。
いま、やるべき仕事とやりたい仕事が合致していること。このブログを書き綴ることも含めて、編集したり自分の本を書いたり、来客対応をしたり、これまでみずき書林としてやってきたことを全うすること。それが僕の人生が僕に課している、一番やりがいのある仕事なのだと思います。
それは規模感で言えば大きな仕事ではないかもしれません。しかしフランクルの言う通り、活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのはその活動範囲の中で最善を尽くしているかどうかです。他の同業他社と比べて、何か特別なことをするわけではありません。ただ、僕にできることを淡々と丁寧にし続けていくだけです。
そして人間関係も僕にとってなにより大切なものです。
いままで一緒にやってきて、これからも様々なかたちで一緒にやっていきたい人たちがいます。これもやはり、僕が彼ら彼女たちに、何か特別なことを提供できるわけではありません。ただ、大切に思っています。そのことを、人生の最後に伝えることができるなら、それに勝ることはないと思っています。これからやってくる僕の最後の時間は、それを伝えるために費やされるでしょうし、そうありたいと願っています。
最後に、『それでも人生にイエスと言う』から、もうひとつだけ長い引用をメモしておこう。
「私たちは、いつかは死ぬ存在です。私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです」(47頁)
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