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  • 執筆者の写真みずき書林

ひとの文章を直すということ


人の文章を直すのは、とても難しい。


編集の仕事をする者として、僕はしばしば人の書いた文章を直します。

直す、というとおこがましく聞こえるかもしれません。

実際には、「こうしてはどうでしょうか」「こうしたほうが読みやすくなると思いますがいかがでしょうか」というふうに提案をすることになります。


そのとき、編集担当という者はいったいどんな能力や資格があって、ひとの書いた文章に提案をしたり注文をつけたりしているのか。

そこには何か基準やルールがあるのか。

つまり、「ひとの文章にとやかく言うほど、自分はうまいのか=自分の提案はほんとうに正しいのか」ということです。


読みやすい文章というのは、たしかにあります。

でも文章というのは基本的に個性があってしかるべきもので、正解があるわけではありません。

あまり第三者が手を入れすぎると、個性の中和された平板な文章になってしまうおそれもあります。

僕たち(編集を仕事にしている人たち)は、そのメインの仕事のひとつともいえる「ひとの文章を直す」という業務の中で、いったい何をしているのでしょうか。


「ひとの文章にとやかく言うほど、自分の提案はほんとうに正しいのか」

という問いに、自信満々で「自分は正しい」と言える編集者は、実はあまりいないのではないでしょうか。

俺の言うとおりに直せば絶対よくなる、と断固として考えている人はそれほど多くはないような気がします。

(いや、文芸とかビジネス書とか自己啓発系のほうには相当いそうな気もするな……)

みんな、おっかなびっくりというか、「著者がああ書いた理由もわかるけど、こういう考え方もある」くらいの不安定な心持ちで原稿チェックをしているのではないでしょうか。


ただし――ここが難しいところですが――「自分の修正提案は正しい」という自信はないですが、編集者を指してよく言われる「最初の読者」としての感覚には、少なくとも僕はけっこう自信は持っているところがあります。

要するに、自分はきわめて平均的な読者である、という自負みたいなものはあります。

つまり、文章の書き手として優れているわけではないけれど、読み手としてはそれなりに優れているとは思っています。


そう思う最大の理由は、いままでそれなりの数の本を読んできたからです。

(いま身についているものは、かけた時間と切った身銭に比例しているならば、結局のところ僕の身についているのは、本と音楽と食事だけです)

別の言い方をすれば、平均的な読者であるゆえに、「僕が面白いと思うものは、この分野に関心を持つ多くの読者にとっても面白いはずだ」「僕が疑問に感じるなら、多くの読者もそう感じるだろう」と思えるということです。


ふたつめの理由は、結局のところは自分が関心のある分野の本を出そうとしているのだから、その文章に対してある程度の理解力(というか理解しようとする意志)があるのは当然だということです。

原稿をチェックする前提として、僕はその原稿に対する、好意的乃至意欲的な読者でなくてはいけません。


最後に、僕が作っている本は、作家やエッセイストではなく、研究者が書いている場合が多いことも挙げられます。つまり多くの場合、文学・文芸のような、文章そのものの個性を売りにしたコンテンツを作っているわけではない、ということです(例外はあります。たとえば早坂暁や藤岡みなみ)。

先ほど「文章には基本的に個性がある」と書きました。それはもちろんそうなのですが、とはいえ僕がメインで作っている研究者~一般向けの人文書という分野では、文章そのものの個性=文体が売りになるようなケースはあまりありません(もちろん例外はあります。たとえば蓮見重彦とか)。

人文書で重要なのは、文体ではなく、物語です。

物語という用語が不明瞭であれば、構造といってもいいかもしれません。

文体が魅力的であればさらにいいのは間違いありませんが、「その人の文章に触れているだけで快楽」といったことよりも、やはり「何が書いてあるか」「どのような論旨が展開されているか」というストーリー≒ストラクチャーのほうがだんぜん重要です。


だから、文章は個性的である以前に、平易で読みやすいことが何よりも重要になってきます。

そしてそういうことであれば、「最初の・平均的な・読者」である僕にも、ひとの文章にコメントし提案できる余地が生まれてきます。

つまり、当たり前の大原則を書くようですが、「読者目線で、読みやすくする」ということが、ひとの原稿をチェックするときの僕の基本スタンスになります。


では、そのスタンスで原稿を読むときに具体的に何を頭の中に置いているかというと、たとえば以下のようなことです。


1.ひとつの文章で言えることはひとつだけ。

2.長い一文と短い一文があったら、短い一文のほうが良いものである可能性が高い。

3.わかりにくい文章に出会ったら、主語と述語を取り出してみる。

4.形容詞が連なって読みにくいと感じるなら、同じような表現を無駄に繰り返しているだけではないかと疑ってみる。

5.なにかおかしいと思ったら、一番手っ取り早い方法は、接続詞を加えるか、変えてみること。


これらはひとつひとつのセンテンスについての向き合い方ですが、物語・構造的な部分のほうに注目すれば、


6.全体の構造の中で、読者が迷子にならないか。まさにいま、何を追究し、何に言及しているか、流れの中ではっきりしているか。

7.ひとつひとつの文章もさることながら、タイトルや見出しが妥当な位置に、妥当なことばづかいで置いてあるか。

8.著者が自明だとスルーしていることは、ほんとうに読者にとっても自明のことか。


といったこともポイントになってくると思います。

いま簡単に言語化できることだけをざっと挙げてみましたが、たとえばこのような経験則は、いちおう頭にあります。

それほど間違ったことは書いていないと思います(いませんよね?)。


つまり、さっきの基本スタンスをもう少し詳しく書くと、


・読者の視点に立つこと(=読者としての自分を信頼すること)

・その一文を、あるいは物語構造そのものを理解しやすくする、という目的を忘れないこと。


ということになるでしょうか。

そういう立ち位置から技術的な提案をすることが、少なくとも僕にとっては、ひとの書いたものに朱を入れるという作業です。



そして実は、この「ひとの原稿の直し方」は、編集者同士が自分のやり方を開示し合わない部分でもあるようです。

どんなふうに著者とやりとりしているのか――どの程度の修正量を、どのような口調で、何回くらいしつこく――やりとりしているのかは、意外とお互いに知らないのです。

ある知り合いの著者は、出版社に何回原稿を提出しても真っ赤になって戻ってくると、意気消沈していました。

別のある著者は、コメントをすごいもらえる! と喜んでいました。

またある別の著者は、上司が読んだみたいで、もう再校ゲラなのにぜんぜん違った方向性の提案を受けたと悩んでいました。

最近僕は、初稿には4000字以上になるコメントペーパーをつけ、再稿では数十カ所のより細部についてのコメントを入れ、三度目の修正稿では文章レベルの修正提案をしました。そうしたら著者から電話がかかってきて、(気分を害して電凸してきたのかと思ったら)とても感謝されました。

そういう「原稿を直された話」は、噂話のように、伝承のように伝わってくるのですが、出版社の者が積極的に喋ることはあまりないみたいです。

正解がない作業なので、きっとみんな、なんとなく手の内を晒したくないのでしょうね。


ことほど左様に、ひとの文章を直すということは、いつまで経っても正しい方法がわからず、誰にも頼れず、自信もつかない作業です。

相手の書いたものに提案をするわけですから、それなりに緊張もしますし、かなり気をつかう場合もあります。

でもそれは、たとえ紙やデータの上のやりとりであっても、正しく〈対話〉です。そういうやりとりを経て完成稿に到るプロセスは、実に地味かつ時間がかかりますが、この仕事が誰かと――しかもその誰かが真剣に考えている何かと――つながっていると感じられる、実に興味深い工程です。

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