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執筆者の写真みずき書林

ダンス・ダンス・ダンス

僕らのまわりにある大抵のものは僕らの移動にあわせてみんないつか消えていく。それはどうしようもないことなんだ。消えるべき時がくれば消える。そして消える時が来るまでは消えないんだよ。たとえば君は成長していく。あと二年もしたら、その素敵なワンピースだってサイズがあわなくなる。トーキング・ヘッズも古臭く感じるようになるかもしれない。――『ダンス・ダンス・ダンス』


なんやかんやと言われますが、村上春樹が好きだ。

子どもの頃から読んでいるものだから、やっぱり血肉になっている。

生きている日本人という枠内であれば、断簡零墨までほぼ読んでいる作家は、村上春樹ただひとりだろう。

そんな人はごまんといることは百も承知で。経済観念からジェンダー観に至るまで、批判の余地がたくさんあることも承知のうえで。僕は村上春樹の影響下にある。


やはり春樹は、圧倒的に文章が上手いと思う。

丁寧で読みやすい文章は、すっと頭に入ってきて、どんなときでも読むことができる。

村上春樹自身にとっては、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』がそういう小説だという。

すべて憶えていて、どこから読みはじめてもいいし、読むたびに新しい発見がある、そんな小説だという。

僕にとっては、やはり村上春樹がそういう作家だと認めざるを得ない。

(彼がたとえば今ほど世界的に有名じゃなかったら、僕としても「認めざるを得ない」などと言わずに、もう少しストレートに推せたと思う。こうメジャーで毀誉褒貶が激しいと、あまり素直に好きだと言いづらい。でも、考えてみればそれは春樹本人のせいじゃない)


ともあれ――いまさらながら、春樹が好きだ。と書いているのは、最近『ダンス・ダンス・ダンス』を読み直しているからだ。

『ダンス・ダンス・ダンス』は、一番好きな春樹の長編だ。

初めて春樹を読む人に勧められる作品ではない。初めての人にはやっぱり『ねじまき鳥』か『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、もしくは『ノルウェイの森』でもいいかもしれない。初期三部作の続編に位置付けられる『ダンス~』は、いきなり読んでも何のことかわからない部分が多い。

でも僕が一番好きで、気が向いたら読み返して、それこそ春樹にとっての『ギャッツビー』のようにどこからでもばらばらと開いてみるのは、『ダンス~』だ。

『ねじまき鳥』あるいは後期の長編が持っている、時間や人物を往還するような重層的な構造はない。でも、すごく楽しい小説として読める。1988年の作品。おもえばそれなりに時間が経っている。トーキング・ヘッズの『Remain in Light』はいまやロッククラシックになっている。

ここには、自分で料理をして、頑固で、オフビートなユーモアがあって、孤独で――ようするに春樹ファンが好きな春樹がいる。

べつに全然世界的な大作家でもベストセラー作家でもない、そういうパブリックイメージが定着する前、春樹自身も成熟する直前の、世間に向かって突っ張っているまともな大人がいる。

しばしば出てくるポップミュージックへのシニカルな言及や、ときおり出てくる料理の描写や、五反田君やユキとの会話など、春樹自身が楽しんで書いたことがよくわかる作品。経済観念なんてまったく下らん。ジェンダー観の違いなんてどうだっていいでしょう、そんな驢馬のウンコみたいな話しないで。


それでいて――当然ながら――面白おかしくハッピーエンドでは終わらない。この作家らしい、夢が現実を侵していくような、作品全体が人生の比喩として機能するような読み心地があります。



ちょっとした息抜きに、『ダンス・ダンス・ダンス』について熱く語る(笑)。

ほとんどの人が読み飛ばし、何人かの知り合いが苦笑するのが目に浮かぶ。




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