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執筆者の写真みずき書林

上智大学での『タリナイ』上映

更新日:2019年9月16日


秋セメの一般公開講座として、上智大学で『タリナイ』の上映会が行われました。

180人ほどの大教室はフルハウスです。

僕は観客の反応も観たくて、最後列の中央付近に座りました。



上映中、少し前に座っていた年配の女性が、「幽霊として出てきたらいいのにね」という勉さんのセリフに大きくうなずいていました。この方は、マーシャル人の男性が祖母たちに聞いた戦争体験を語り、それに勉さんたちが反応する〈ウミガメのシークエンス〉では、小刻みに何度も首を振りながら観ていました。

また左隣にいたべつの中年の男性は、ラスト近くの日本語とマーシャル語の字幕が連なる場面で、太い唸り声のようなため息を漏らしていました。


15分ほどの休憩を挟んで、第2部であるトークイベントへ。

登壇者は大川史織監督、藤岡みなみプロデューサー、そして出演の勉さんが仙台からいらっしゃっています。

司会は蘭信三先生。

前にもちょっと書きましたが、このメンバーの登壇は、僕にはなかなか感慨があります。



当たり前のことですが、オーディエンスや読者は、それぞれの立場から作品を観ます。

たとえば、戦争体験のある人、体験者を身近な家族にもつ人、アカデミズムの訓練を受けた人、などなど。

このトークでは様々な話題のなかで、『タリナイ』の〈主張のなさ〉(誤解を招きやすい表現ですが、〈主張のなさ〉とは〈受け手に考えることを促す柔構造〉と言い換えられるでしょう)が意志的なものであることが、監督とプロデューサーの口から語られました。

質疑応答でも、その点に関する質問が多かったかもしれません。昨日のフロアでは、そのことを指して「ぼんやりした」というワードが何度か使われ、個人的にはいささか違和感を感じたのですが、ともあれオープンエンドになっていることに対しての対話は、皆がことあるごとに短く強い言葉で主張し合う昨今の剛構造社会を鑑みても、興味深いものでした。とりわけ、プロデューサーがしっかり時間をかけて、作品の背景にあるマーシャルと日本の〈双方向の悲しみ〉を伝えようとする姿勢は――そういう機会が貴重であったこともあり、印象に残りました。


(作品の〈主張のなさ〉と開放系については、過去に書いたことがあります。全体に長すぎるこのブログの記事の中でも、最長のもののひとつ)


ひとつ前の記事で作家と編集者について書きましたが、ここでもやはり、監督とプロデューサーという相棒関係の確かさが作品を生み出していることが、あらためて感じられました。



終了後にコーディネーターの蘭先生が「どうだった? 今日の上映と講演は完璧だったでしょ」と自賛していたとおり(笑)、充実した内容でした。



「勉さん、あなたは幸せだよね」と蘭先生が語っていました


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