森岡督行『荒野の古本屋』(小学館文庫、2021年)
を読了。
奇遇にも、本書と『なぜ戦争をえがくのか』は同じ誕生日。
みずき書林を立ち上げた日々のことをまざまざと思い出す。
自分ひとりだけの意志なんかではなくて、誰かとの縁とかつながりとか、ときには背中を突き飛ばしてくれるような何らかの外からの力とか。
そういうものに、なけなしの勇気を上乗せしたときに、人生は少し上を向き始める。
そういう渦中にいるときには、不安でおっかなくて、動悸とともに勇気が膨らんだり縮んだりする。
「こういう状況下でどうにかこうにかオープンの日を迎えた私は、一転して不安で不安で仕方なかった。期待は微塵もなくなっていた」(P.162)
「往来ですれ違う人たちの一人ひとりが幸せそうに見え、自ずと私のこころは荒んでいった」(P.164)
開店当時のことを綴ったこういう一節を読むときに、強い共感がある。
森岡さんは詳しく触れはしないが、「どうにかこうにか」「不安で不安で仕方なかった」といったことばの裏には、長期間にわたる沈んだ日々があったに違いない。
「私のこころは荒んでいった」と短く書かれた文章の背後には、暗くて長い日々があったに違いない。
そこにどんな事情や具体的な感情が畳み込まれているのかはわからないが、でも自分のこととしてなら思い出すことができる。
3年前のちょうど今頃、独立しようと思った僕も、不安で不安で仕方がなかったし、最悪の間違った選択をしてしまったんじゃないかと、往来ですれ違う人たちの一人ひとりが幸せそうに見えたこともあった。
独立して半年後に、用意した資金が完全に底をつき、どうしようかと焦った。
その直後にはじめてのまとまった入金があり、銀行口座を確認して、安堵のあまりその場にくずおれた。
立ち上げのときの、はじめての恐怖の記憶は格別だ。
でもいまでも、恐怖に少し慣れただけで、そういう不安やピンチはけっこうある。
自分には無理なんじゃないか。自分には、そんな能力はないんだ。そんなことを考えて寝付けなかったり、目の前のゲラの文字がまったく頭に入ってこなかったり。そんなことはいまでもしょっちゅうある。
上記の引用の後はこう続く。
「見渡すかぎりの荒れ地。風はそのあいだを土煙を巻いて、侘びしく吹き抜けた。住所はさしずめ東京都中央区無番地といったところだろう。私はそこに古本屋を開いてしまった。これでは、昔の映画のタイトルではないが、まるで「荒野の古本屋」である」
こうして書き写していても、胸が詰まる。
この気持ちわかる、などと書くとおこがましいしありきたりだが、ぼくにもぼくなりに、ささやかながらそういう経験があって、この不安な気持ちがわかる。
不安は消えない。馴致させるしかない。
これはぼくの実感だが、十中八九間違いなく、森岡さんも――ぼくや世間の多くの人びと同様に――いまでもずっと不安とともに暮らしていると思う。
森岡さんはどのようにしてこのピンチを乗り切り、不安を飼い慣らしていったのか。
ここでも再び、大切なのは自分ひとりだけの強固な意志などではなく、誰かとの縁とかつながりとか、ときには背中を突き飛ばしてくれるような何らかの外からの力だ。
偶然のような必然のような、ひととのつながりが、森岡さんを動かす。
本が売れ、ギャラリーが始動し、さまざまなコラボレーションが生まれ、森岡書店が続いていく。
他の人ではなく森岡督行さんだからこそ、そのように動いていき、動かされていく。
それは普通の暮らしと仕事なんだけど、なんてドラマチックなんだろう。
どんなに不安で、今でも毎日、勇気が膨らんだり縮んだりしていることだろう。
そして最後にもう一度おこがましいことを書くなら、森岡書店がドラマチックなら、みずき書林の日々もそれなりにドラマチックなのかもしれない。
たとえば。
ここまで書いたときに、スマホが震えて、友人がインスタを更新したと教えてくれた。
インスタを開いてみると、『なぜ戦争をえがくのか』の感想をアップしてくれていた。
とても嬉しいテキストで、誇張や冗談ではなく、ちょっと涙ぐんだ。
そういうのは、ほかの人にとってはどうってことないことだろうけど、ぼくにとってはすごくドラマチックで、少し勇気が膨らむことなんだ。
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