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  • 執筆者の写真みずき書林

佐藤勉さんの誕生日――刊行から1年


昨日7月3日は、佐藤勉さんの78歳の誕生日でした。

勉さんは、『マーシャル、父の戦場』で全文を解読した日記の書き手である、佐藤冨五郎さんの息子さんです。

冨五郎さんは、74年前の1945年4月25日に、


日記書ケナイ

之ガ遺書


最後カナ


の絶筆を遺して、翌日亡くなりました。

マーシャル諸島ウォッチェ環礁。

栄養失調でした。



日記は奇跡的に生き残った戦友・原田豊秋さんが持ち帰り、勉さんのもとに届きます。

しかし、日記は2冊の小さな手帳に、薄い字でびっしりと細かく書き込まれていて、判読が難しいものでした。

日本とマーシャルの間を往復し、戦後70年以上を経て、紙は色あせ、文字はかすれています。

書かれた当時の状況を想像すれば、ノートも筆記具も限られていて、救援のない孤島での日々はいつまで続くかわかりません。そして体力は日々確実に削りとられていきます。残ったページと体力を大事にしながら、小さな細かい字で綴らざるをえません。


勉さんは父の日記を全文読みたいと思いながら、戦後を過ごすことになります。


会社を早期退職してタクシーの運転手になったのは、日記を読める人を探すためでした。

大学から配車依頼があればまっさきに車を向けて、乗ってきた大学関係者に父親と日記のことを話してみる、という地道な日々を続けました。

その涙ぐましく鬼気迫る努力が、多くの人との出会いを生み出し、日記の全文翻刻を盛り込んだ本になりました。


初版の奥付の日にちは、勉さんの誕生日である7月3日。

ほんとうは、本ができたのはもう少しだけ後だったのですが、編者の大川さんのたっての希望で、この日付にしました。

勉さんと冨五郎さんに敬意を表して。


***


日記の絶筆のページをはじめて見たときのことは、よく覚えています。

それまで細かい字でびっしり書きこんであったものが、最後の文字だけは、余白いっぱいを使うように、とても大きいのです。

これは死に瀕して最後に字が乱れたのではなく――その逆で、死期を悟った冨五郎さんは、もう余白のことを考える必要はないと知って、最後の力で、できるだけ大きな文字を残そうとしたのではないでしょうか。


45年4月25日、冨五郎さん絶筆

19年3月30日、増刷記念会での勉さん

18年7月20日、完成した本をはじめて見ている大川さん

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