「岡田さんは男で、年上で、社長だから、私たちが毎日どんなものに晒されているか、絶対にわからない」
前職のころ、若い新入社員の女性に言われたことがある。
ずっと忘れられないことばだ。
つい先日、ある小説家のインタビューを収録した。
その作家は女性で、韓国人の母と日本人の父を持ち、大学時代は吉行淳之介を研究していた。
僕も学生時代に吉行を読み漁った時期があった。単純に、そのダンディズムと顔も含めたたたずまいの良さに惹かれたからだ。
もちろん、女性と性を描く作家だということは知っていたし、いわゆるフェミニストからは危険人物(というか旧世代の遺物)のように扱われていることも知ってはいた。
吉行は、もちろん女性にもモテたのだろうが、しかし好き嫌いがわかれるタイプの作家なのは確かだろう。
「吉行とか村上龍とか、そういうのをあえて愛読する女って、いますよ(笑)」と皮肉な顔で笑った大学時代の同級生の女の子の顔もはっきりと覚えている。彼女は『全ての男は消耗品である』という当時売れていた村上龍のエッセイを読んでいた。そこには単に作品が好きだということとは全く別の、微妙な、捻じれた自意識があったように思う。
いっぽうの僕にとっては、吉行は男が惚れる男であり、僕もそういう作家として愛読していた。要するに、吉行を読むことは、彼の洒脱さやダンディズムをまとおうとすることだった。単純な自意識だ。批評的に読んでいたとはいえないかもしれない。
だからあれから20年以上が経って、女性の作家に吉行の話をするときには、若干緊張した。
そのインタビューの席上で、僕は吉行を「いい気なものだと思った」と評した。
そのことについては後述する。
フェミニストの訳語を「男女同権論者」とするなら、僕はフェミニストでありたいと思っている。
母親からは、老人や女性と歩くときは、荷物を代わりに持ち、車道側に立つように教えられた。
掃除・洗濯・ゴミ出しをはじめ、家事はすべてひととおりやる。
シャンプーを詰め替える? トレペを交換して芯を捨てる? 小さくなった石鹸を捨てて新しいものをおろす? 食器を分類して片付ける? もちろん。いわゆる「名もなき家事」と言われるものがどういうものかも、体験として知っている。
家の食事はほぼすべて僕が作っている。
家事は女性の仕事だとは、断じて思っていない。
冒頭の若い女性社員のことばも、僕を非難するために言われたものではなく、セクハラまがいのことをしてくる著者である老人について話をしていた時に言われたことばだ。
僕は女性差別をするような人間では断じてない、と自分では思っている。
そしてこの「自分では思っている」というのが、問題なのだ。
モンティ・パイソンに「俺には許せない人間が二種類いる。人種差別する人間と、黒人だ」というブラックジョークがあったが、差別的な人間のほとんどが、実際には無自覚なのではないだろうか。(もちろん、自覚的に故意に差別的な人間もいる。でも自分が「悪しき人間」であり、それが「悪しきこと」だとはっきり自覚して他人を差別している人間は、おそらくそんなにはいない)
こうして書いてみると感じざるを得ないが、僕はフェミニストであろうとしているのではなく、ジェントルであろうとしているのではないだろうか。
ジェントル、に続くのはマンだ。
すでに僕は目線が違う、という可能性はないだろうか。
そういうことを意識している時点で――つまり「ジェントル」であろうとしている時点で、すでに僕の目線は無自覚に高い位置にあるのだろうか?
僕は、日常的に、無自覚に、差別的な発言をし、行動をしているのかもしれない。
恐ろしいのはここだ。
(たぶんつづく)
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