(前回の続き)
男性がフェミニストであろうとする気持ちと、いわゆる女性のフェミニストにおそれに近い感覚を抱く気持ちは、矛盾しない。
僕が彼女たちにおそれに近い感覚を抱くのは、彼女たちが男性に攻撃的で敵対的な態度をとるというイメージを持たれているからではない。
自分が理解しているつもりで、実はなにもわかっていないかもしれないと思うからだ。
僕は無意識に、無自覚に、差別的な言動をしている可能性がある。
それが相手の柔らかく傷つきやすい場所を抉っていることにまるで気が付かないままに。
前回の冒頭の女性社員の発言のとおり、僕は基本的に常にマジョリティの立場にいたし、これからも基本的にはそうだろう。
これまでの人生で差別されたことは――少なくともそう感じたことは、ない。
だから、なにか根本的にわかっていないんじゃないかという恐れがある。
どれだけ本を読んで共感しても、家事をやろうと思っていても、相手の性別を意識しないで話をしているつもりでも、無自覚に愚かなことをしているのかもしれない。
多くの男性は、差別主義者ではない(はずだ)。
ただ、無意識に差別に加担している場合もあるし、その地雷がどこにあるのかがわかっていない。この社会で平然と暮らしていること自体が、無自覚な差別主義者だとみなされるなら、ぐうの音もでない。
いや、一般化するのはよそう。
あくまで個人的なことを書く。
僕は、差別主義者ではない。
ただ、無自覚に相手を傷つけている可能性は、ある。
その結果、周囲の人に無知かつ差別的な人間だと思われたとしたら、一切の弁解の余地はない。
そのようにして一度発せられたことばやとられた行動は、とりかえしがつかないまでに、関係を損なうだろう。
それまでどんなに対等でよい関係を築いていても、たった一言の不用意なことばが、無自覚なふるまいが、こちらとあちらを隔てる。
それもまた、恐ろしいことだ。
女性の作家に対して、吉行を「いい気なものだ」と評した心理もこのあたりにあった。
僕は、初対面の若い女性作家が、吉行をどのように評しているかわからなかった。
ただでさえフェミニズム的には剣呑な吉行である。僕には思いもかけない吉行評が現れる可能性もあった。
僕は吉行という作家は興味深いと思っているし、単純な男性優位主義者ではないと考えている。だけれども、そこには僕が男性であるがゆえに無自覚に読み飛ばしていた、予想もしていなかった観点があるかもしれない。
そのことを恐れ、僕は吉行はほぼすべて読んでいると告げながらも、「いい気なものだと思った」という、観測気球的な発言をした。
(結果的には、その若い作家が吉行に惹かれたのは、戦中に青春を過ごして戦後に作家として立った第三の新人の世代の、ある種のアイデンティティのゆらぎや引き裂かれ方に関心があったからで、そのときはジェンダー的な吉行論に踏み込むことはなかった)
これまでの人生で差別を受けたことはないと書いたが、数年前にアメリカでこんなことがあった。
たしかサンディエゴだったと思うが、ひとりで通りを歩いていたら、向こうから来た黒人の老婆に、不意に「ジャップは出ていけ」と怒鳴りつけられた。
ただ単にふつうに歩いていただけで、ふつうにすれ違っただけだ。すれ違いざまの、一瞬のことだった。
あるいは、場所は忘れたが、同じくアメリカでタクシーに乗って空港に向かっていた時のこと。南米系とおぼしき訛りの強い運転手が「中国人か?」と訊いてきた。違う、ジャパニーズだと答えたら、彼は嬉々として、日本人は礼儀正しくて親切で大好きだ、それにひきかえ……と一方的にまくしたて始めた。空港に着くまで、その差別的なことばは延々と続いた。
これは人種の問題だが、いくつかの教訓がある。
まず、僕はマジョリティだと書いたし、実際に日本で生きている限りはそうなのだが、外国に出れば、「アジア人」という属性は、容易に被差別側のマイノリティに落ち込む可能性がある。
つまり、自分の持っている属性は絶対的なものではなく、環境によって、誰でもあっという間に被差別側になる可能性があるということだ。
次に、彼らは黒人の老婆であり、あるいは南米系の労働者だった。日々の生活の中で抑圧された経験があり、それが他人に反射したのかもしれない。老婆は一方的な悪意を叩きつけてきて、南米系のおじさんは奇妙な親愛を示してきた。とくに後者の場合は、一見親しみの表現だっただけに、余計にたちが悪い。
差別は単純な上下構造ではなく、二枚底三枚底になっている場合が多く、そして常に憎悪の顔を持っているわけでもない。
老婆に怒鳴られたときのささくれだった不快感と、嬉々として喋りかけてくる運転手に相槌も打てないいたたまれなさは、忘れないようにしたい。
長々と書いてきたが、結局、例によって個人的なところに話は落ち着くしかない。
つまるところ、声高になにかを主張するのは性に合わないし、それで世界をよくできるとも思っていない。
もし世界が少しでもよくなるために僕にできることがあるとすれば、自分の生活態度を律することだけだと思っている。
いわゆる急進的なフェミニストに糾弾され吊るしあげられるのが怖いのではない。
そうではなくて、親しく接している人との間に、知らぬ間に垣根を生んでいる可能性が怖い。
向こうからはその垣根が見えているのに、僕にはまるで見えていないかもしれないのが、怖い。
Comentarios