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  • 執筆者の写真みずき書林

小泉明郎「私たちは未来の死者を弔う」


小泉明郎さんの、

私たちは未来の死者を弔う We Mourn the Dead of the Future」

を観てきました。



映像作品ですが、いわゆる〈映画〉ではありません。

映画とはなにか、という定義は手に余るのでひとまず措くとしても、「あらすじ」が映画につきもののデータだとするならば、メタ的なあらすじしかありえないこの作品は映画ではありません。この作品は、映像で表現された演劇/パフォーマンスというべきものです。

そして単に演劇と定義することもできません。ここには〈役割を与えられた人びと〉はいても、〈役割を演じている〉、いわゆる役者はいません。そして作品のちょうど半分の長さにおいて、そんな人々は自分の意図せざる動きを見せることになりますから。

ここでは、映像であることが、重要な、必然的な方法として選択されています。



こういう作品に対して〈ネタバレ〉という概念は相応しくありません。

いわゆるネタバレを気にしていては、ほとんど何も書くことができないタイプの作品です。

そして一方では、何の予備知識もないままに観ることを強くお勧めしたい作品でもあります。

よって、以下ではネタバレへの配慮なく自由に書くことにしますが、これから作品をご覧になる方にとっては、いささか目にうるさいテキストかもしれないと、あらかじめお断りしておきます。



いきなり最大のネタバレをしますが、この作品には折り返し地点はありますが、始まりも終わりもありません。あらすじがありえないと書いた所以です。

映像は延々とループして終わることがありません。

よって、この作品の上映は途切れることなく続き、観客はいつでも劇場内に入り、随意に出ていくことができる上映方法になっています。

そしてどこから観始めたかによって、真逆の印象を残すことになります。

あるタイミングで観始めた人にとっては死からの復活というストーリーになり、また別のタイミングで劇場内に入った人にとっては再生から滅びへの物語になります。


そしていずれにせよ、観客は途中でその構造に気づき、作品の循環構造に巻き込まれることになります。

それに気づく瞬間はまさに観始めるタイミングによって異なるのですが、気づいた瞬間の戦慄が、観終わった(=自分の意志で席を立った)あとも、心に蟠り続けることになります。



たまたま入ったタイミングによって、僕は再生から滅びというラインで観ることになりました。

作品が編集された時系列に従うなら、前半の半ば頃から劇場に入ったわけです。

降り続ける雨の中、死体役の人びと(と表現するしかありません。あとのトークイベントでわかったことですが、出演者は演技のプロではなく、ほとんど訓練も練習もしない状態でこの場に置かれた人たちです。彼らはたまたま〈役割を与えられた人びと〉であって、俳優として〈役割を演じている〉わけではありません)は次々と助け起こされ、用意されたセリフではなく自分で考えた言葉として意志的な発言をして甦り、立ち上がって列に並んでいきます。

かつてテレビで見慣れた、放射線の防護服を想起させずにはおかない白いレインコートを着た兵士役の人びとが、その儀式を行っています。

死体役が声を張り上げるたびに、兵士役の全員がそれを復唱します。

ぎこちないが真剣な発話が行われ、死体は次々と復活していきます。

(〈ぎこちなさ〉と呼ぶことは、非難ではありません。むしろ、異様な状況に巻き込まれて発話を強いられるという状況が、現実に自分自身の身に降りかかる可能性が、それによって肌身に感じられます)



後半(と便宜的に呼びますが)では、前半で理解可能だった発話は、絶対に理解できない言葉に変わります。

外国語のような、意味不明の発話が続きます。

詠唱のようだったやりとりは、呪いのようなものに聴こえてきます。

そして言う/言わされるという関係も逆転します。

意志的に発話していたように見えた死体たちは、兵士たちから発話を強制されているように見えてきます。

兵士役に両腕をとられて跪かされた死体役の姿は、現実の世界でオレンジ色の服を着せられて砂漠で跪かされていた人びとを、否応なく連想させます。

(降りしきる雨は意図的なものではなく、当初は西日の差すなかで撮影するつもりだったことも、上映後のトークベントで明かされました。しかし、いかにも寒々とした曇天といつまでもやみそうにない雨――いかにも日本的な冬の景色――のなかで撮られたことは、この作品に一種の〈身近さ〉を感じさせる要因になっています。兵士も死体の山もないはずのこの国でも、この悪夢のような状況が生じうることを思わせる雨です)。



……この種のテキストに結論めいたことを書くのがどうも苦手なのですが、作品に映ることを余儀なくされた人びとが、死ぬ前に死ぬことについて発話を強いられ、しかもそれを反転させて永遠に循環させられるというシチュエーションのえげつなさには、正しく破壊力があります。

(〈えげつなさ〉と呼ぶことは、非難ではありません。むしろ、異様な状況に巻き込まれて以下上記と同文)

そしてそのシチュエーションが、このパフォーマンスのなかではあくまでフィクショナルな仮定のものとして扱われているということは、いったい誰にとって残酷なのか。ということを考えさせられました。



最後に。

マーティン・エイミスに『時の矢』という短めの長編小説があります。

この作品は逆再生小説をうたい、主人公の死からはじまり、どんどん若返っていき、赤ちゃんに戻るまでが描かれます。

この設定だけでそうとうに野心的な試みなのですが、主人公はナチスに協力して強制収容所でホロコースト/ショアに加担した医師です。

彼の人生が逆再生されるとどのように見えるか。

彼は地面に捨てた灰を拾って焼却炉に入れ、焼却炉の扉を開くと人びとが復活します。

彼は人びとを収容施設に送り、その施設の中で、人びとはどんどんと目に見えて健康になっていきます。

彼はあらゆる手段を用いて、傷ついた人びとを治癒していきます。

人びとは施設から送り出され、普通の暮らしに戻っていきます。

彼自身もどんどん無垢になり、医師を志す純粋な若者になっていきます。

学生時代に読んだので細かいところは憶えていませんが、そんな小説のことも思い出しました。



……もはや、ブログの長さでは、ない(苦笑)。

昼休みも超過しました。


こういったタイプの映像作品を言語化しようとすることにどれほどの意味があるのかわかりませんが、少なくとも僕にとってはこのように書いてみることが、自分のなかに作品を定着させる、ひとつの(ほとんど唯一の)方法かもしれません。



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