タイムトラベル専門書店utoutoプレゼンツ、タイムトラベラー養成講座の情報が公開になりました。
小社の関係では、大川史織さん、音食紀行・遠藤雅司さんが登壇。
藤岡さんとのトークイベント、楽しみですね。
「100日間シンプル生活」が終わってしばらく経ち、いささか遅きに失した観があるものの、このタイミングで、タイムトラベルと「100日間シンプル生活」に絡めて、極私的・藤岡みなみ論を。
(対象との距離を保つため、以下敬称略。乞御容赦)
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ドラえもんとのび太は、机の引き出しの中に、機械化された空飛ぶ絨毯みたいなのを持っている。
マーティとドクのデロリアンは、車の形をしている。
『サマータイムマシン・ブルース』では「何やら大きな板状の」「ドラえもんのあれ」の格好をしている。
広瀬正『マイナス・ゼロ』では、なにやら古風な、青銅製で角が丸いのっぺりした箱のかたちをしている。
タイムトラベルをその方法で分類すると、こういうのは王道の「装置型」といえるかもしれない。才人テッド・チャンの新作短編集『息吹』にも時間を超える不思議な設備が出てきたりした。
そこまで大きな機械でなくても、何らかの小道具がトリガーになる「小道具型」もあるだろうし(たとえば筒井康隆『時かけ』)、めまいや失神・死を経て気づいたら時間を超えていた……という、いわば「体調型」もたくさんの作例がある。
目下4号まで刊行しているタイムトラベル専門書店utoutoのZINEにも、いくつかのタイムトラベルが描かれている。
1号「guruguru」にはショートショートがふたつ収められているが、「肉食の古墳」では「古墳の土の奥」が時間の境界線になっていた。「ジュラシックパーク十二単」ではエレベーター風の乗り物が登場する。
これらは「装置型」だ。
2号「fuwafuwa」は時間が逆に流れていく構造になっているが、冒頭でそのきっかけとなるのは、「あなた」が手にする「fuwafuwa」であり、新刊のZINEそのものがきっかけになるというメタ設定になっている。
3号「dondon」は音楽がテーマになっていて、編集後記では「あなたのタイムマシンはどんな音楽ですか?」と書かれる。ここでは、楽曲や歌詞が、記憶を呼び起こすトリガーになっている。
最新号では(ネタバレ禁止で詳述はしないが)彼女たちのお店で実際に売っているタイムトラベル・パスポートが重要だ。
これらはすべて「小道具型」といっていいだろう。
お気に入りのタイムトラベル小説を紹介するとき、藤岡みなみが真っ先に推す頻度が高いのは『リプレイ』や『ターン』で、これらは死やめまいが時間旅行を引き起こす「体調型」なのだが、意外にも藤岡自身は「体調型」のタイムトラベルを仕掛けることはほぼない。
彼女は「装置型」から書き始めて、その後はいまのところ、「小道具型」を愛好しているようだ。
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昨年後半に展開された「100日間シンプル生活」は、藤岡みなみというタレント(ここでは日本語で浸透している「芸能人」という意味よりも、むしろ本来的な意味で捉えてほしい)の近年のチャレンジの中でも、タイムトラベル専門書店utoutoとともにとりわけ大きな反響を集めた。
奇妙な設定からスタートし、笑ったり困ったり驚いたりしているうちに、やがて生活を見る目が少しずつ前を向いていく。
ことば選びのセンスに優れた、チャーミングで品のある文章を読んでいると、ちょっと優しい、そしてなぜか少し切ないような気分になる。
実に藤岡みなみらしい企画だった。
――さて。ここから本論はかなり強引な展開になっていくのだが、この「100日間シンプル生活」もまた、「小道具型」の企画であったといえるだろう。
要するに、持ち物ゼロから始めて、1日ひとつだけモノを取り出しながら100日間を暮らしてみようという企画。
100個の小道具が、日々の生活を見直す/変えるトリガーになる。
彼女が愛好するタイムトラベルの作法にも共通する手法だといえる(かもしれない)。
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「モノは、生活を豊かにする」
「何かがない暮らしよりも、何かがある暮らしのほうが、豊かである」
と、一般的には思われている。
でも「豊かさ」とはどういうことなのか。一度立ち止まって考えてみよう。
……中世の修行僧とか、現代の自己啓発のヒトとかが言いそうなことである。しかし藤岡みなみにはそのような必死さやかたくなさはまるでない。そういう教条的なことはいっさい言わないで、取り出して並べたお気に入りの小道具のまわりを、藤岡の思考は颯爽と旋回する。
藤岡みなみは身近な小道具を愛している。
だからこそ、タイムトラベル専門書店utoutoでは、愛するアイテムを身近に集めようとする。
そして「100日間シンプル生活」では逆に、一時的にそれらを遠ざけることで、自分自身の反応を見ようとする。
たとえば星を散りばめるように、好きなモノで自分の空をおおってみせる。
あるいは、しばしの間、空から月を消してみて、自分の心がそれに気づくかを確かめている。
utoutoでは「普段はないモノ」が現れる。アイテム単位どころではない、店そのものが不意に現れるという趣向だ。
「100日間~」も、「シンプル生活」「モノなし生活」とはいえ、1日ひとつモノが増えていく、というルールだった。
減るのではなく、増える。
そのあたりが、禁欲的な修行僧や、昨今の悟りたがりの引き算的な指向とは一線を画している。
とはいえ、自身が愛してやまないモノを身の回りに増やしていけば、心もそれに比例して豊かさを感じるだろう、というフォロワーの足し算的な予想は、途中から心地よく裏切られていく。
モノを愛しているにもかかわらず、――むしろだからこそ、増えたぜ。やった~って終わりになるわけではないところが、この人らしいところである。
ZINE最新号「mukimuki」のラストで彼女はこう書いている。
「私たちって最高、という気持ちと、最低だ、という気持ち、その両方を共有していることが嬉しい」
note「モノなし生活」の最終日では、こう綴っている。
「1日目より100日目のほうが断然幸せなのだろうと予想していたけれど、最後はもうなにかを得ることから逃げ出したくなっていた」
天秤の向こう側にいろんな道具を置くことで、こっち側にある心の重さをはかる。
あるいは、身近にある小道具を手に取ってながめて、心がどこまで遠くに行けるかをはかる。
そのプロセスのなかで、「最低な」「逃げ出したくなっている」心すらもきちんと肯定してあげる。
このポジティヴネスのあり方が、藤岡のタレントであろう。
わかりきった結論のようで恐縮だが、大切なのはモノではなく、心だ。
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愛する「小道具」をモチーフにして心をのぞきこむ、ポップで突飛なチャレンジ。
それがタイムトラベル専門書店utoutoと、100日間のシンプル生活の共通点かもしれない。
実は、モノを介して心をのぞくことは、(藤岡みなみほど自覚的ではないにせよ)我々が日常的に無意識にやっていることでもある。そして、そんなふうにのぞきこんでみた心は、自分でもちょっとどうかと思うくらい、へなちょこでひょっとこなシロモノだったりする。
藤岡みなみは、自分自身をサンプルにして、そんな心を肯定してみせる。
現れる/増えるものは、明日には消える/減るかもしれないという予感とともにある。
その予感が、さっぱりとした向日性を特色とする彼女のテキストに、そこはかとなく切ない読後感が感じられる要因だと思うのだが、おそらく彼女自身はその喪失の予感みたいなものに敏感なのだと思う。「喪失の予感」と書くと大げさすぎる感じだが、ようするに北村薫やグリムウッドや広瀬正といった偉大なタイムトラベラ~が感じていたであろう――のび太やマーティも抱いているかもしれない――昨日あるモノが今日もある喜びや、今日あるモノが明日にはなくなるかもしれない儚さに敏感だということだ。
藤岡みなみはすぐそばで笑っていて、でもときどきわれわれのそばを離れて、ひとりでとても真剣な顔をしているみたいだ。
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