堀くんへ
君の最後の一節「岡田さんにとって、「本を作ること」って、どんなことですか?」を受けて。
僕にとって「本を作ること」とは、唯一習い覚えた、この世間を渡っていくための方法であり、誰かと親密な関係を結ぶためにたったひとつ知っている手段、ということになると思う。
考えてみれば、僕は本を作って売る以外に、日々の米塩の資を得る方法をなにひとつ知らない。本作りだけが、唯一の技能だ。それ以外のスキルは何ひとつ知らない。考えてみれば心細いことではある。人文系の本を作れるという技と術だけが、僕が手にしている生きる手段だ。
同時に、それは僕にとって最も大切なことである、他者と結びつき交流するための手段でもある。僕がこの世で手に入れたもっとも誇らしく貴重なものは、人間関係だ。本ではない。だから本作りは、よい関係を築くための手段にすぎない。
こんなふうに書くと、何か代替可能な手段に過ぎない、大したことのないテクニックのように思われるかもしれないけど、どうせこの世界で暮らしていくために何らかの技術を身に着けないといけないとするなら、僕が手に入れたそれが本作りの技術であってよかったなと思っている。
やっぱり本が好きだからね。
好きなものを自作できるというのは楽しいものです。
そんなふうに本を作ってきて、かれこれ21年にもなるわけだけど、その間には自分にとってエポックになるような本もいくつかありました。
『マーシャル、父の戦場』は確かにそうだったし、『いかアサ』を作っていたときと刊行後のテンションも間違いなく画期だった。『なぜ戦争をえがくのか』と『なぜ戦争体験を継承するのか』を同時進行させていたときも静かな興奮があった。『旅をひとさじ』も作っているときから特別な本になることがわかっていた。
前職でいえば、早坂先生の全集、小長谷先生と作った梅棹忠夫の本、東京空襲写真集、広島と長崎の写真集などは、自分にとって重要な本だった。
その他にもひとつひとつの本に、代替不可能で、手段と割り切るには濃すぎる思い出が詰まっている。
本作りは、唯一習得した生きる手段であり、ひととつながる方法であり、学ぶところが多く好きな作業でした。いま振り返ってみても、「(本作りではなくて)やっぱりこっちのスキルを習い覚えておけばよかった」と思うことはまったくない。映画を撮る、絵を描く、書店を経営する、小説を書く、絵本を作る、写真を撮る……たくさんの才能のある人に出会った。そのなかで、僕にとっては編集と出版運営のささやかな能力が、必要にして十分な、楽しいと思える技能だった。
幸運な21年間ということになるのでしょう。
*
逆に言えば、1年くらいでは技術を研ぎ澄ませて体制を整えるには不十分だし、大切な人間関係がずらっと並ぶにはもっと長い時間がかかるだろう。
そういう意味では、1年後の図書出版みぎわの目標、
「当たり前に企画の相談を受けられて、当たり前に本が刊行できて、当たり前に本を売ることができる出版社になっていること」
は、(普通っちゃ普通だけど)まず妥当なものだと思います。
ちなみに4月13日が創立記念日のみずき書林の、創立1年後あたりをちょっと覗いてみると、
2019年4月12日「海へ来なさい」
4月13日「1周年記念ロゴ」
4月16日「「いかアサ」関連の長文テキスト」
ある人から井上陽水の歌詞を教えてもらって感激し、妙なロゴを作り、そしてなによりこの時期、刊行したばかりの『いかアサ』の反響で完全な躁状態にありました。浮足立っていた、といってもいい。この時期もまた青春時代だったのは間違いありません。
みずき書林も、1年くらいではぜんぜん固まっていないし、右往左往している雰囲気が伝わると思う。
こうやって昔のブログを読み直していると(最近はそういう時間が多い。「思い出すこと」をひとつのテーマにした自分の本の準備をしているから)、この時期の自分が羨ましくてしかたがなくなる。すごく楽しそうだ。
同時に、いまからこの時期を迎え、そのあとにもずっと長い時間が待っている君のことが羨ましくなる。
以下、往復書簡の第1回に戻って無限ループ……。
*
……あらためて思わざるを得ない。
どうやら僕は間もなく死んでしまうらしい。
そのことをしみじみと感じてみると、不思議な気がします。怖くはない。ただ、不思議な感じです。
自分がいなくなること。それでもきみやみんなの生活が続いていくこと。このキーパンチをしているみずき書林の部屋はそのまま残ること。でもいま視界に入っている10本の指先は灰になって消えること。僕の座っていたダイニングテーブルの椅子、僕の寝ていたベッド、読みかけの本、そういったものは残ること。
僕だけが、ぽっかりいなくなること。
そのことを考えると、不思議な気持ちです。
思えば僕は、長く引き伸ばされた死を生きています。
告知を受けて1年半が経ち、その間に死ぬことに対して向き合わざるをえなくなりました。
昨年末の死にかけレベルから今のそれほど悪くないレベルまで、体調は行ったり来たりしつつも、実際に死にそうな感じは遠ざかっている。
死ぬ死ぬと言われ、また言いながら、でも実際は意外と元気に生きている。
僕は引き伸ばされた死を生きていて、死について考え、皆にお別れを言う時間はしっかりあるのです。
これもまた、不思議な感覚です。
まさか自分の人生に、そんな時間が巡ってくるなんて、考えてもいませんでした。
こんなふうに人生が終わっていくなんて、予想もしていませんでした。
僕はゆっくり時間をかけて死につつある。
今朝も看護師さんと、どんなふうに弱って死んでいくのかについて少しだけ話をしました。
僕としては、痛みや苦しみが次第に強くなっていってやがて死ぬのかと思っていました。
でもいまは、痛みや苦しみはある程度コントロールできるようです。
ただコントロールするためには強い薬を使わなければならず、意識が朦朧としている時間が増えることになるとのこと。
朦朧と覚醒の間を行ったり来たりするうちに、次第に朦朧の時間のほうが長くなり、自分でも気づかないうちに朦朧から死へと移っていくことになるのでしょうか。朦朧としているうちにいつの間にか死ぬのであれば、楽といえば楽ですが、その境目が知覚できないのは、怖いといえば怖い。自分でも知らないうちに死んでしまうわけですから。
それともそれこそがよくいう「眠るように死ぬ」ということで、決して怖いことではなく、むしろ幸福な死に方なのでしょうか。
最後の瞬間のことは、いくら考えてみてもよくわかりません。
1年後、図書出版みぎわが「当たり前の」出版社になっているころ、僕はもうこの世にはいない可能性が高い。
保苅実は『ラディカル・オーラル・ヒストリー』のあとがきで、「丁寧に勉強し、静かに深く感じ、そして身体で経験し続けたいと思います。それ以外に豊かに人生を生きる方法なんてないでしょうが」と書いています。そのように生きていってください。
そしてときおり、僕のことやこの往復書簡で交わしたことばのことを思い出してください。
そのときの僕に居場所があるとするなら、あなたたちの記憶のなかだけでしょう。
*
この往復書簡はこれでいったん終わりですが、いちおうオープンエンドということにしておきましょう。
つまり、それぞれのブログの記事で呼びかけがあれば、いつでも応答するようにしましょう。
僕は毎日、図書出版みぎわのブログを覗いていますから、更新されればすぐにわかります。
そこにもし僕への問いかけや呼びかけがあれば、召喚に応じて返信を書くことにします。
*
この記事は何日かにわけて書かれていて、そのときどきでかかっていたBGMもまちまちだけど、ここはその中から、上記「海へ来なさい」を収める1979年の『スニーカーダンサー』を。
「海へ来なさい」は陽水が生まれたばかりの息子にむけて書いたものとのことだけど、ひとりで何かをなそうとしている人のための歌詞になっているので、ぜひ聴いてみて。
太陽にまけない肌を持ちなさい
潮風にとけあう髪を持ちなさい
どこまでも泳げる力と
いつまでも歌える心と
魚にさわれるようなしなやかな指を持ちなさい
海へ来なさい 海へ来なさい
そして心から
幸せになりなさい
風上へ向える足を持ちなさい
貝がらと話せる耳を持ちなさい
暗闇をさえぎる瞼と
星屑を数える瞳と
涙をぬぐえるようなしなやかな指を持ちなさい
海へ来なさい 海へ来なさい
そして心から
幸せになりなさい
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