• みずき書林

忘れることと憶えていること――生活感覚について


もともとそれほど政治的な人間ではありません。

僕に限らず、実際に〈政治的な(政治的関心が強い)人間〉というのは、実はそれほど多くはいないと思います。

もちろん政治は大事です。でも普通に暮らしている多くの個人にとって、政治より大切で身近なことはたくさんあります。政治が一大事であってはならないとすら思います。

でも最近は、自分自身も含めてはっきり変わってきた感じがあります。



まず悪い面を見ると、現状はひどすぎます。

僕のような人間でもはっきりと肌身に感じられるほど、いまの政治はひどい。

金銭的な不正や保身を最優先した政治はもちろん許されることではありません。でも誤解を恐れずにいえば、いま行われていることはそれに輪をかけて酷い。

なぜいっそう酷いかを僕なりに簡単にまとめると、

1.国民の生命と財産を危険にさらしている

2.民主主義、三権分立、選挙のあり方といった、基本的な政治倫理を無視している

ということに尽きます。

政治家が自分たちの私欲を満たす以上に問題なのは、水平方向には全国民に、垂直方向には将来の国のあり方に、害悪を成していることです。




次によい面を見ます。

多くの人間のSNSでの発信によって、何かが変わったのは確かです。

地道かつ素早く声をあげることで変化を及ぼすことができると実感できたのは、いいことだと思います。

(このことに対しては、ちゃんと実効が上がったときに、実際に政治に関わっている人と声をあげた人の間で、もっとコール&レスポンスをやるべきだったとも思いますが)

いまはリアルなデモと同じくらいに、ネット上の声を束にすることが効果的です。

僕もこの短い期間に、いくつかのネット上の署名を行いました。

そういうことが少しずつでも物事を良い方向に変えると信じるしかありません。



もうひとつ、誰でも語っていい/語るべきという雰囲気ができつつあるのもいいことだと思います。

「芸能人が口出しするな」とか、「何も知らないくせに喋るな」という雰囲気がいまだに濃いのは確かです(なぜ芸能人が政治を語ってはいけないのか、理由がまったくわからないですが。芸能に比べて政治が高尚で高次なものだというのが間違っている。そもそも言論の自由はどこに行った?)。

でも、普通の人間の生活感覚をベースに語ればほぼ間違いがないし、その生活感覚を大事にすることが政治に正しく参画することなのだという雰囲気は、少しずつですができつつあると感じます。




さて、しかしながら。

〈政治的であること〉は疲れます。ひどく疲れます。

僕はいま普通に暮らしていて、政治に関心を持たざるを得ない。

そして生活のさまざまな面に政治がこびりついてくることに、けっこう疲れています。

SNSはたしかに力を発揮しました。

でもどういうわけだろうか、最近の僕のタイムラインはざっと追うだけでものすごく疲れる。

ほんとうは、そんなことは気にしないで暮らせるなら、そうしたい。

もっと楽しいことや、自分で意義深いと思えることを考えながら暮らしたい。

善政とはいわないまでも、せめて穏当な政治であるなら、そういうふうに暮らせたし、ここまで疲れることはなかったでしょう。

そもそも、こんなふうにみんなが声を荒立てることもなく、ましてや普通の生活を送るだけでひどく疲れるという事態にもならなかったでしょう。




今までだって、政治は大事だと教えられてきました。

選挙には行ったほうがいいと学んできました。

でもいま、より多くの人数がより深刻な切実さで、政治が直接的に生活に影響を及ぼすことを実感しつつあります。

われわれはそれぞれの生活感覚を大事にしながら、ささやかな意見表明をしなければなりません。

僕のような横着者にとっては、はっきり言えば面倒なことです。でもそれをしないと、どうやら普通の暮らしはできなさそうです。

それをしないと悪政というものが現実に起こることを、我々は学んでしまいました。

(「悪夢の〇〇時代」という表現は、〇〇の部分を入れ替えながら、為政者たちが墓穴を掘りあうようなかたちで、今後何十年も使われ続けることになると予想しています)



ものすごくうんざりすることに、現政権がたったひとつ真理を突いているかもしれないことがあります。

それはわれわれの「忘れる能力」を利用しようとしている点です。

そのときはすごく関心があった大きな事件も、われわれはすぐに忘れてしまいます。

また同時に、われわれは日々のことは忘れないと生きていけません。とくに、身に降りかかった悪いことは忘れていかないと、心が蝕まれてしまいます。

気持ちを切り替えて、気分を入れ替えないと、とても耐えきれるものではありません。

悪しきことを忘れるのは、怒りを鎮め、心を浄化するために必要なプロセスなのだと思います。



そういう意味では、忘れることはあながち悪いことばかりでもないのだと思います。

ただ、忘れていいことと、憶えておいたほうがいいことがあるのだと思います。

これは僕の生活実感ですが、些細なことは忘れてもいい。

些細なこととはたとえば、いまの首相の名前であり、前検事長の名前であり、コロナの渦中で彼らが冗談のように配った2枚のマスクのことです。

そういうどうでもいい些事は忘れてもいい。そんなことを憶えていても、心が黒々と不愉快に蟠るだけです。

ただ、世界的な疫病が流行ったときにひどい悪政が行われたという事実は、皮膚感覚として覚えておいたほうがいい。

つまり、素人目にも公式選挙法違反ではないかと疑われる事案を糊塗し、民主主義の根幹として子どもでも知っている三権分立をゆるがせる事案を押し通そうとした人物が、よりにもよって国家の首班だったという事実を、忘れないでいようということです。

そいつの名前や具体的な事件の推移はどうでもよろしい。そうではなくて、ひどく危険でうんざりさせられたという時代の印象だけを記憶していれば十分なのだと思います。

しかもこの世界的な困難のときに、そのような政府であったことは――そういうことは今後も起こりうることは――憶えておいたほうがいいのだと思います。




いちおう大学で歴史を学び、社会人になってから歴史の本を作ってきた者として、実感していることがあります。

楽しいことや好きなこと、関心のあることは、細部に至るまで憶えているべきだし、また自然と憶えられる。

いっぽう、不愉快なことや腹立たしいことは、ディティールは忘れてしまってもいい。それを記憶するために脳の貴重なメモリを費やす価値はない。

ただ、そのコアにある危機感や不快感は忘れないほうがいい。

たとえばビートルズの4人のメンバーの名前と彼らの作った曲の数々を覚えておくと、人生が豊かになります。

でも、あなたが特別な関心を持っている研究者かマニアでない限りは、ジョンを撃った男の名前までは知らなくてもいい。ただ、ジョンがそのような最期を迎えたこと――ときに人生はそのように悲劇的であることは、いつまでも記憶しておいていい。



もうひとつ、いままでの社会人生活で実感していること。

それは、われわれが普通の生活者として感じた疑問や感慨は、多くの場合間違っていないということです。

僕は大学の先生が執筆する専門書や研究書をたくさん作ってきました。

先生方はその方面の専門家であり、質量ともに豊かな知識を持っています。

そういう人に疑問を投げかけたり提案をしたりするのは、ときに勇気がいることです。

でも、彼らの話をきちんと聞き、書いたものを読み、そのうえで感じた疑問は、ほとんどの場合まっとうな質問として受け入れられました。

なにを頓珍漢なことを言っているんだ、という目を向けられることはまずなく、僕が編集者として投げかけた質問や提案は、先生方や専門家にとっても「なるほどね」と耳を傾けてもらえることでした。

我々がごく普通に暮らしているなら――何度も使っていることばですが――自分自身の「生活感覚」を大事にして間違いはないのだと思います。



僕はここ最近、いままでよりはいくらか余計に〈政治的〉な人間になりました。

リアルタイムの政治に関心を持たざるを得ない環境になりました。

そしてそれは、立派なことでも喜ばしいことでもありませんでした。

多少なりとも歴史に関心を持っている者として、ongoingな政治に過剰に一喜一憂することに自制的でありたいとも思っています。

でも、それでもなお。



だから、いいことはたくさん憶えておきたい。

悪いことの細部は忘れてしまってもいい。

ただしその肌触りだけは忘れないでいたい。

そしてそのすべてを、精一杯に自分の頭で考えて、自分のことばで表現したい。



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