• みずき書林

怒れ。笑え。


間違ったことを書くかもしれない。 でもおそらく、多くの人が感じていることとそれほど離れていないと信じて書いてみる。 9年前のあのとき、自分以外にももっと悲しい経験をしている被害者がいた。 もちろん原発事故の影響で東京も他の街も危ないと言われ続けていたが、我々は「東北のひとたちを支える」という明確な気持ちを共有していたと思う。 政治的な批判はあったし、失策もあった。 でも、為政者たちが私欲のために動いているかもしれないと疑うことは、少なくともなかったはずだ。 特定の政党や個人を云々するつもりはない。たんに、人間性を疑うという最低レベルの疑念を持たずにすんでいた、と言いたいだけだ。 いまは、我々ぜんいんが、等しく被害者でありうる。 もちろん、実際に病気になった人や医療従事者の方など、より厳しい状況におかれている人はいる。 でも我々は基本的に、年齢も国籍も貧富も関係なく、全員が同じ被害と犠牲の可能性のなかにいる。 だからまず自衛が精一杯で、ごく身近な人を助ける行動は起こせても、一致してなにかに立ち向かおうという温かい空気にはまるでなれていない。 そしていま、為政者たちは、私利のためだけで行動していると疑われてもしかたがないことばかりやっていて、だから我々は政府発表の裏を読もうとするのが癖になってしまっている。 どうせ利権が絡んでいるんだろうと裏ばかり読み、どうせ都合のいいごまかしがあるんだろうと常に嘘を疑う。彼らは我々を蔑ろにし、我々は彼らを信頼していない。 不幸な関係といわねばならない。 地震と疫病はともに天災である。 でも我々が心底憎み、怒るのは、じつは大震災でもなければコロナ菌でもない。 大地が揺れるという自然現象そのものを心から憎むことはないし、「コロナあっち行け」「コロナのバカ」といったことばを発するものの(そしてそれは本心から言われているものの)、我々がいま心底辟易しているのは、目に見えない病原菌そのものではない。 我々が心底怒り、おそれ、ときに憎むのは、やはり人間である。 頭の片隅ではよせばいいのにとわかっていながら、Twitterのタイムラインやネットのニュースを必要以上に追いかけてしまう。 批判の応酬が罵詈雑言と化していく様にうんざりしながら、なぜかそれを見続けるのをやめられない。 昨日は国会中継を流しながら仕事をしてしまい、あまりに欺瞞的なやりとりに暗澹とした。 我々は家にずっといないといけないから疲れているのではない。 我々は、腹を立てていることのほうが笑っていることよりも自然で、真摯に生きていれば笑うよりも疑い怒るのが当然になってしまった社会に疲れている。 怒り、おそれ、疑い、憎みながら、疲れはてつつある。 いっぽうで、我々が心から喜び、笑うのも、人間相手である。 我々を喜ばせるのも、人間でしかない。 たとえば隔離された無人島にひとりでいて、今回の経緯をラジオだかネットだかの情報だけで観ていたとしたら、たとえコロナが収束してもべつに嬉しくもないだろう。 自分が病気になる可能性が減ったことが一番うれしいのではない。 知り合いの誰かが病気になる可能性が減ったことが、あの人が喜んでいることが、うれしいのだ。 結論をつけるために、なんとなくきれいごとを書いているように見える? そうかもしれない。 でも我々はいま、素朴なきれいごとを必要としていると思う。 こういうときくらいきれいごとを言わないで、いったいいつ言えばいい? 〈絆〉なんてことばは気色悪くて大嫌いだった。でも、いまはそんなことばすら生まれていない。

僕は誰かに怒り、誰かを憎む。 その相手の全員が、会ったこともないし、会いたくもない人間だ。 僕は誰かのために喜び、誰かを想って笑う。 その全員が、会ったことがあるし、これからも会いたい人間だ。 「あなたの笑顔がみたい」なんてのは、よくあるラブソングの凡庸な歌詞だ。でも、いまはかなり本気でそう思っている。 ときに怒りは必要だと学んだ。 正しく怒ることは、社会をまともにする。 そしてまともな社会とは、普通の人たちがちゃんと笑うことができる社会だろう。

いま素直に笑える人は、きちんと怒れる人と同じくらい尊敬に値する。 笑うことは、怒ることと同等かそれ以上に、尊いことであってほしいんだ。

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