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我々は何を見ているのか?――遠藤薫の舟が海を渡る
神保町で開催中の遠藤薫さんの展示、「バナナの船の帆/海を渡る」。
バナナの原種をさぐる旅の経過報告。
同時に、バナナの木で織られた芭蕉布で帆を作り、舟を自作して波照間から台湾の離島まで漕ぎ出そうというプロジェクト(!!)のプロセスがわかる展示でもあります。

沖縄の爆弾の破片を鍛冶屋さんに鍛え直してもらって道具を作ったり。
(何食わぬ顔でバナナが並んでいるのがおかしい。バナナは、展示会場のいろんなところに、展示品なのか飾りなのか、はたまた食料なのかわからない感じで遍在しています)

腐った豆腐があったり。
(染織に使うとのこと。かちかちの石みたいになっていて、けっこう臭いがきつい。固い豆腐ようみたいな。実際、珍味として食べられるのだとか。ほかにも「イノシシの血」なんかも展示されている)

会場を覆っている米軍放出品のパラシュートを見上げたり。
(戦後の沖縄では、こういうものが服になったり、繕い物の端切れに利用されたりしたのだとか。かつて銀座の資生堂で、沖縄の古布に米軍の軍服とパラシュートで継ぎをあてた布を見て以来、僕のなかでの遠藤さんの象徴的なオブジェ)
こういうもののひとつひとつが、舟になるのだといいます。
その舟はひとつひとつにストーリーがある品々で出来ていて、そこに張られた帆は、遠藤さんが染めたさまざまな色を持っていることでしょう。
スケールの大きな企画でありながら、見つめているのはどこまでも手元・足元の小さな道具の来歴であるところが、実にこの人らしいのです。
(そして遠藤さんの解説をうかがいながら展示を見ていたらお客さんが入ってきて、それが偶然、今回の本作りですっかり仲良しになった大川さんだったりして、そういうところも実に遠藤さんと大川さんらしいのです)
たとえば「腐った豆腐」を見ていると、「自分はいったい、いま何を見ているんだろう?」という思いにふと捉われます。それはそうですよね。美術の展示に行って、「腐った豆腐」や「イノシシの血」を見せられるということは、あまりないかもしれません。
そしてこの非美術品/美術品の境界を曖昧にして、普通のモノを特別なモノに異化していくのが、実に遠藤薫の創作のマジックのようです。
神保町のたいして広くもないスペースで抱いた「われわれはいったい何を見ているんだろう?」というこの感覚は、近い将来、遠藤さんの帆が広い空にひるがえった瞬間に、大きく蘇ってくるのかもしれません。
それぞれのヒストーリーを持つ色と布で織りなされた帆を持つ小さな舟。
その美しい舟が沖縄の海に浮かぶのを見るとき、おそらく再び、「われわれはいったい何を見ているんだろう?」と茫然とすることになるのでしょう。