『マチネの終わりに』についてほんとの感想を書くと、とてもいい映画でした。
僕は原作を愛読していて、ひところ「これは自分のための小説だ」と勘違いするほど再読三読したのですが、映画もとても丁寧に作られていました。
2時間ですので、原作の重要な人物やエピソードがまるごと削られてはいますが、それでも全体を通して原作の端正な面持ちを損なわずに構成されています。
(この作家が持つある種の政治的ニュアンスが大胆に削られているのは、商業映画である以上しかたがないでしょう)
中盤の決定的な夜の描写は、ある人物の確信犯的な動機を強めた結果、原作にあったいささかのご都合主義的な部分がなくなり、より緊迫感が増しました。
原作を読んだのは昨年の春。
こんなことを書くと、あたかも自分がストーカーか精神異常者のように思えて、我ながら苦笑が漏れますが、あの当時、主人公と僕にはいくつかの共通点がありました。
1.40前であったこと。
2.ずっと従事してきた仕事に疲れていたこと。
3.『神曲』についての僕の唯一の知識であり共感ポイントである、冒頭の深く暗い森についての引用があること。
4.岡山出身であること。
5.作品中で重要なモチーフとなる〈ヴェニスに死す〉症候群。すなわち人生への過適応に嫌気がさして、いい年になってから破滅的な選択をしようとしていること。
いうまでもなく、本作の主人公である蒔野と僕とはまったく違います。
蒔野は子どものころから神童と謳われた天才ギタリストであり、僕はとりたてて才のない出版の人です。
とはいえ当時、まるで僕を誘い込むように、僕の人生との奇妙な符合がちりばめられていると感じたのでした(ストーカー的文章)。
映画では『神曲』も『ヴェニスに死す』も割愛されています。出身地に言及されることもありません。
そしてなにより主役は福山雅治なのです。「自分と同じだ」などと感情移入する余地はありません。
そんなわけで、映画はとてもよいものでしたが、原作よりはある距離感をもって観られるものでした。
おそらくそれは、僕のいまの環境もあると思います。
昨年の春といまでは、僕自身のコンディションとシチュエーションが違います。そういう受け手のタイミングも大きな意味を持つでしょう。
(とはいえ、劇中で携帯電話のロックを外すパスコードを教えるシーンでは、のけぞって驚きました。セキュリティ上はっきりとは書けませんが、ほとんど一緒だったのよ、僕のパスコードと)
そのかわり、映画は「老い」を感じさせる点が、いまの僕にとって刺さりました。
これは先述のとおり、福山雅治(と石田ゆり子)という配役の妙が大きいと思います。
先にも書いた通り、人は老います。
映像になることで、その部分は原作よりも際立つ結果になったようです。
制作者の意図がどのあたりにあったかは知りませんが、原作の設定よりも実年齢が上の、福山雅治と石田ゆり子という希代の〈歳をとっても美男美女〉を起用したことで、むしろ加齢を感じさせる効果を挙げています。
いまでも十分美しいけれど、かつての完璧な美しさは零れ落ちていく。
美しさとは顔の美醜の話ではなく、おそらく若さそのものがもつ光源のようなものです。
それが零れ落ちていく。
遅ればせながら、タイトルもそのようなものとして理解できました。
僕はいま、たぶんそういう年齢にさしかかっているのだろうなと感じました。
まだ歳というほどの歳ではないはず。そう思いながらも、もう若くはないと自己規定するのにはけっこうな努力を要する年齢、ということです。
映画の本筋とはまったく違うことを書いていますが、この物語と俳優たちは、そういうことを感じさせてくれました。
映画の本筋。については、友人たちと読書会(呑み会)をすることになっています。
みんな、映画も観とこう。
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