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  • 執筆者の写真みずき書林

次に伝えるという意識―継承について1

昨晩は、これから企画を進める方たちと会っていました。


いま、ふたつの企画が同時進行していて、はからずも同じテーマを追いかけることになっています。

共通のテーマは「戦争体験の継承」。

18時から24時前くらいまで、話題はこの周りを旋回しながら多岐に及びました。

そのなかでいくつか、とても面白く大切だと感じたことを、備忘録として書いておこうと思います。


まず〈継承〉は受けとめるだけではなく、次に伝えることでもあるということ。


いまは体験者と非体験者の非対称性が喫緊の問題であり、それに対応するためにふたつの企画が立ち上がっているわけですが、今後は非体験者同士の伝達になっていきます。

つまり、まだ体験者がいる今の時期にその話を聞けるということは、次の世代には不可能な特殊・特別なことであるということになります。

そのときに、体験者の語りをまっすぐ受け止めることは、もちろん重要です。

しかしそのときに、自分は受け手でもあると同時に伝え手でもあるという意識を持ちうるかどうか、あるいは伝える手段を持っているかどうかが、現場の態度に大きく影響するというお話がありました。

たとえば、被爆者の方が語り部として修学旅行の小学生を前に喋る、というケースがあります。僕も昔、長崎でそういう平和教育を受けた記憶があります。それはそれで大事なことなのは前提として――昨夜は、子どもの頃の印象的な語りや圧倒的なトラウマ的体験が、長く重要な影響を及ぼすという話も挙がりました――とはいえ、そのときにアウトプットの手段を念頭においているかいないかは、受け手の態度を大きく変えます。

修学旅行生は多くの場合、それほど高い表現のモチベーションを持っていないでしょう。いっぽうで、たとえば画を描いたり本を作ったりするためという動機がある場合は、その表現のために話を聞くことになります。当然、態度において大きな差が生じるでしょう。

そして言うまでもなく、その表現そのものが、次に伝えるという〈継承〉になっていきます。


昨日会っていたおひとりは、95年に被爆者が書いたアンケートを、その当時に生まれた学生たちと一緒に分析・解読しようとしています。そしてそれを、たんなる分析ではない、〈学生たちの顔が見える〉表現にしようとしています。

もうひとりの方は、広島の高校生たちが体験者からの聞き取りを通して原爆の画を描くというプロジェクトを長年追いかけている方です。そこで描かれた絵は、画集にもなり、論文にもなり、演劇にもなっています。

ともに、話を聞くこと/読むことが、自分自身の表現にもなっていて、しかもそこに自分たちよりずっと若い人たちが重要なかかわりを持っています。つまり、ある表現手段を通して、受け取ることと伝えることが等しく同居しています。

アウトプットを前提にしてインプットの現場に立ち会うこと。

自分は最終走者ではないと心得ること。

そのような自覚を持つとともに、話を聞く相手もまたそのような人として見つめること。

そういった、次に伝えるという意識および表現方法の有無は、あらためて大事だという話をしました。



そこからさらに印象的だった話として、「言葉にならないことを言葉にするために」という話題がありました。

が、長くなりそうなのでひとまずここまででアップ。


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