(前回のつづき)
早坂先生の世界は色とりどりで、飄々としておかしく、でもちょっと――ときにかなり――哀しい。
「渥美ちゃん」「暁(ギョウ)さん」と呼びあった大親友、渥美清。
奇想天外な手口を披露する結婚詐欺師。
長崎で家族三人で暮らしていた、先生の〈ニセモノ〉。
四国出身者にはなじみの深い、身近な偉人であるお大師さん=空海。
同じく郷里ゆかりなので親しみを込めて「さん」付けする、漱石さんと子規さん。
渋谷の猫たちの女王、アマテラス。
オナラの名人で、広島で死んだゴロやん。
満洲で死んだ女相撲の関取、雪錦。
超虚弱児だった先生をともなって遍路道をめぐった母。
捨て子だったけど一緒に育てられ、兄に会うために広島に行って死んでしまった最愛の妹、春子。
そういった人たちに注がれる先生の眼は、ときにユーモラスで、常に切々と暖かです。
テレビや映画の脚本、あるいは長編小説では、そういった人々がじっくり、しっかりと時間をかけて描きこまれます。
エッセイでは、一筆書きのように、人びとの表情やしぐさがさっと写しとられています。きわめて緻密な人間観察(それができなければ、シナリオライターが務まるはずがありません)に基づいて、その人の一番〈濃い〉ところが、一番〈深い〉ストーリーが、あくまでさらっとした筆致で語られます。
脚本や小説がビッグバンドやオーケストラだとすれば、エッセイはアコギ一本で弾き語りをしているようです。
滋味豊かで、やがてかなしき文章です。
昨今〈じわる〉という言い方がありますが、早坂暁のエッセイはまちがいなくじわります。
分厚い本ではありませんが、時間をかけて、ゆっくり少しずつ読んでもらえたらと思います。
今回は精選したエッセイを、あえて先生の生涯を逆回しにするように並べました。
絶筆に近いテキストを冒頭に配し、まず「生のレッスン・死のレッスン」と題して、死生観にかかわる文章が並びます。そう、松山付近の大きな商家で育った先生は、長じて病気のデパート的な人になりました。病をえて、生と死の間でくんずほぐれつしながら書かれた文章群です。
次は「渥美ちゃんのこと」として、親友との交流を描いた文章を集めました。
浅草の銭湯での出会いから、お別れの会での弔辞まで。
明るいんだけどどこか切ない、泣きそうなのをごまかして笑っていたような俳優との、長きにわたった交流の記録です。
「おかしく、哀しい人びと」「美しく、たくましい者たち」と題した章では、早坂暁の出会ったたくさんの人々が描かれます。
前の半分は、詐欺師やストリップの照明係や先生のニセモノなど、ちょっとおかしな、奇妙な人たちのパレードです。先生自身も奇妙な人だったのは間違いないので(笑)、珍しくシナリオ執筆の作法について書かれた「シナリオ不作法」もここに収めました。
後半は一転して、先生が美しさと敬意を感じていた者たちについての文章を集めました。〈者たち〉というのは、ここには空海や漱石、子規、中川幸夫などと並んで、猫も入ってくるからです。猫もまた、早坂暁世界の重要な登場人物でした。
そこから「戦争と原爆」に入ります。
早坂暁のルーツともいうべき、青年時代に体験した戦争と広島の原爆についての章です。
悲しみや怒りをどのように表現するか。大きな歴史に対して、個人は、個人の操ることばはどう立ち向かうか。
戦争や原爆で死んでいった人々の、死に至るまでのそれぞれの暮らしを想像し続けた作家の、至芸というべき文章です。
そして最後は「故郷、へんろ道」。四国松山の近く、遍路みち沿いの大きな商家に育った先生の、幼少時代の思い出です。
瀬戸内のこと、家族のこと、お遍路さんのこと。
(いま編集中ですので、細かい点は変更になることもあるかもしれません)
つまり本書では、早坂暁という人の記憶がどんどん若返っていく構成をとっています。
場所でいえば東京から広島を経て、故郷の四国松山へ。
病に悩む老人から、様々な人と出会って破天荒で多忙を極めた時期を経て、青年時代の戦争体験から、幼少期の故郷まで。
早坂暁がどれくらい膨大な仕事を遺したかは、ここでは触れません。
ただ、ひとりの異様に面白く、鋭く、あたたかい文章家に触れてもらえればと思います。
そういえば先生の生前、背中にはほんとうに刺青があるのかと訊いてみたことがあります。
先生はふわっと笑って、何も答えませんでした。
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