• みずき書林

死ぬのに相応しい静かな世界


一年前に病気がわかったとき、絶望的な気分になると同時に、少し楽にもなった気がした。

楽になった、とは奇妙な感覚だが、絶望的で呆然とした感情が少しずつおさまってくると同時に、そのすき間を埋めるように、僕は楽な気持ちになって行った。

楽とは、要するにいろんな世俗のことがどうでもよくなっていく感覚だった。


自由民主党の総裁が誰になろうが、コロナがどれだけ猛威を振おうが、オリンピックがどうなろうが、統一教会問題がいかほど表面化しようが、ウクライナがどれだけ蹂躙されようが、もはや自分には関わりのないことだ。

(2021年秋当時。いまから振り返れば順番に、まだある。まだある。もう終わったがある意味ではまだある。そのころはなかった。なかった)

そのような世俗のことを離れて、僕は自分自身のより切迫した問題にだけフォーカスすればいい。というか、フォーカスせざるをえない、と考えた。

それはある意味では楽な感情だった。

半出家とでもいおうか。

もはや世間を惑わす一過性の諸問題は、僕を騒がせることはできない。

僕は、死ぬ。

その問題を前にして、世俗の愚行がいかほど世間を騒がせようとも、それが一体なんだというのか。


さきほど半出家と書いたが、頭髪が抜け落ちたいまとなっては、皮肉かつ適切な比喩といわざるをえない。

煩悩が宿るとされる頭髪は、僕にはもうない。外見は仏門の人に酷似している。

ではこの一年間、濁世を離れて、本当に僕は楽になったか、と訊かれると、否と言わざるを得ない。

性懲りもなく僕は選挙に行って投票を続け、ウクライナの難民やペット支援のために寄付をづづけている。結局のところ一部の上層部が私腹を肥やして恬然とするための装置に過ぎなかった五輪にうんざりし、元の総理大臣が射殺されたことを擁護する気は微塵もなくなった。

頭髪の代わりに、僕の頭の周囲には相も変らぬつまらない煩悩や世俗の苛立ちが、どう撫でつけてもおさまりがつかない癖の強い髪形のように渦巻いている。


そんなことはもうどうだっていいんだ。

もっと僕を楽にしてくれ。

楽にして、僕にとってもっと大事なことに集中させてほしい。

言っても詮無きことながら、もっと死ぬのに相応しい静かな世界になってはくれないものか。


最近たまに考える。

僕が死ぬ日の新聞には、どんなろくでもないニュースが一面を飾るのだろう。

ヤフーニュースのトピックにはどんな一過性の話題が流れているのだろう。

どんな有名人が、僕と同じ日に死ぬのだろう。


できることなら、特筆すべきことがなにひとつ起こらない日に、ひとりでそっと死んでしまいたいものだ。



坊さんというより宣教師に近いが(笑)




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