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  • 執筆者の写真みずき書林

死者のための作品――5/16


結局、週末はずっと寝ている。

どうもお腹の調子がよろしくない。


本日は午後から大学のゲストレクチャー。

昨年まで担当していたコマを、コトニ社の後藤さんに引き継いで、早速にゲスト講師として呼び戻された。

後藤さんには僕が担当していた頃に何度かゲストに来てもらったので、お互い様。

完全対面になっていて、150人を前に喋る。

久しぶりの感じ。我ながら意外なんだが、こういうのがけっこう嫌いではないんだなと思う。


今回のテーマは「編集者として、読むことと書くこと」。

自己紹介の後、読んできた本の話。

幼少期に読み聞かせてもらった「ぐりとぐら」「エルマーのぼうけん」からはじまり、中高生の頃の吉川英治、司馬遼太郎。

高校大学では筒井康隆と村上春樹。『夜と霧』。


いま個人的に関心があるのは、表現や作品に、「死者のための作品」はあるのかということ。


当然と言えば当然のことだが、この世にあるアートやエンタメもすべて含んだあらゆる表現・作品は、生者のためにある。

鑑賞者は言うまでもなく生者なわけだ。ただし、詩や音楽には「鎮魂歌」というジャンルがある。

絵画も、ある場合には死者に捧げられる。


死者のために書かれた小説、というのは可能だろうか。

いずれはみんな死ぬのだから、すべての作品は死にゆく者のために書かれている、といった話がしたいわけではない。

すでに死んでしまった、あるいは直近に死が迫っているかもしれない人に、小説のような表現はどのように有効か。という話だ。


実はこれについてはちょっとした腹案があって、自分で少し書いてみようかと思わなくもない。

読書と、そこから派生して遂行される行為が、死者を思い出すよすがになるような、そんな作品。ありきたりな死後の世界の物語。



そんなことを頭の片隅に置きながら、90分喋りまくる。

例によって時間がぜんぜん足りず、後藤さんがメインに据えて考えてくれていた「編集者としての読み方」というテーマは最後の20分くらいで駆け抜けるように済ませてしまう。

素読み、校正、校閲、色校正、一部抜きなどなど、本作りのさまざまな段階における「読み」の話。

それこそ編集に関心のある生者たちにとっては、より関心の高い話題だったと思うのに、そこに時間をしっかり裂けなかったのは反省。

延々としゃべるさまは、とても病人には見えなかっただろう。


でも楽しかった。

体調が思わしくないので、講義後の打ち上げはまた今度に。

ギャラがわりに奢ってくれることになってるので、早く良くならないと。



自己紹介スライドでは、しっかりクリームをアピール(撮影:後藤悠樹)



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