2週間にわたったアップリンク渋谷での『タリナイ』の上映が終わりました。
本日のレイトショーは、みごと満席御礼。
そして書籍『マーシャル、父の戦場』も無事完売(うう嬉しい……)。
僕は映画の姉妹編であるその本の編集者なので、まさに親戚のおぢさん的なかんじで、時間の許すかぎり劇場に足を運びました。
行ったときは、映画を観ながら客席の様子を観察するのも、ひとつの楽しみでした。
今夜の最終日は早々に満席になったことからもわかるとおり、「本当に観たい」という気持ちの方がたくさんいらっしゃったと思われる、真剣な雰囲気でした。
この作品ではマーシャルの音楽がふんだんに使われていて、そのとてもフレンドリーな音楽が大きな魅力を放っています。
ご覧になった方からも、マーシャルの音楽に魅せられたという感想がたくさんありました。僕もそのうちのひとりです。音楽が紐帯であり癒しであるという、日本ではいささか陳腐にも響きかねない言い方が、マーシャルの土地には確かに根差していることが実感されます。
音楽は、この映画の生命のひとつです。
よってここでは、あえてこの映画の沈黙の時間について書いておきます。
この映画には、意図的に音がなくなる場面がいくつかあります。まったくの無音になったり、波の音や雨だれの音だけになったりする時間が、ときおり訪れます。
そういった瞬間には、聴覚だけが不意に我に返るような感覚になります。
座席のなかで身動きをする、衣擦れ、鼻をすするといった、画面外のちょっとした音が際立ちます。
この映画では、そういった沈黙の時間には、画面に映る文字が大切な意味をもつように作られています。
耳だけがつかのま映画から解放され、そのぶん目の重要度が高まるように演出されているわけです。
満席の最終日だったからでしょうか、前述のように真剣に観ようという雰囲気が満ちていたからでしょうか。
今夜はこの沈黙の時間のぴりっとした緊張感がとりわけ印象的でした。
当然のことですが、人が多ければ多いほど、沈黙は生まれにくくなります。普通の状態であれば、人が50人近くも集まって座っていれば、常に誰かが何か音を出していて、完全な沈黙になることは1秒もないでしょう。
この映画で生み出される沈黙の時間は決して長いものではありませんが、そのとき、全員が固唾を飲んで画面に見入っているような気がしました。
僕は映画の製作関係者ではありませんが、本作りとの関連で、この映画はかなりの回数を観る機会に恵まれました。
そして親戚のおぢさんのよしみで、マーシャルの音楽もしっかり聴くことができました。
そのうえで、いまはそんな沈黙の時間が気になっています。
これはおそらく、劇場で多くの人と一緒に観るからこそ気になることだと思います。
たとえば自宅のTVでひとりで観ても、周囲には聞き慣れた生活音が満ちていて、劇場でのような隣の人の息遣いが気になるほどの沈黙は生まれようがありません。
劇場であればこそ、われわれは不意に訪れた静けさにちょっとした居心地の悪さを感じます。そして全員が黙って同じものを観ているという、独特の緊張感を共有することになります。
その沈黙の時間は、マーシャルの人たちが歌っているときのリラックスした雰囲気と強いコントラストを作り、この作品の基層に流れる不穏で無慈悲な過去を想起させます。
……なんだか玄人受けすぎる見所・聞き所を紹介したようですが(笑)、もしもどこかの劇場やホールでこの作品をご覧になる場合には、マーシャルの美しい音楽やひとびとの交わす会話もさることながら、その隙間に訪れる沈黙についても注目ください。
そして、そのとき沈黙のなかに浮かび上がる文字のひとつひとつをじっくり読んでみてください。
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あの沈黙の時間を味わうためにも、またどこかで上映しましょうよ。
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