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執筆者の写真みずき書林

淡々とした決め事


この週末は、従兄弟が訪ねて来てくれました。


彼は『マーシャル、父の戦場』の冨五郎日記を少しずつ読んでくれていて、このほど、最後まで読み終えたとのこと。


昨夜、そのことについて話をしたのですが、従兄弟は、冨五郎さんが死の前日に、

「六時半頃マデスコール有リ後、晴」

と書いていることに衝撃を受けたと言っていました。

死の直前に、天気について書くとはどういう営為なのか。

たしかに、人は自分が明日死ぬと知ることはできません。

しかし冨五郎さんは飢えと体調不良の極限状態にあり、自分が遠からず死ぬことを見つめています。

そのなかで、天気について書くことは、どういう心の動きなのでしょうか。


僕も9月頭から日記をつけています。

感情を記さず、起床時間、食べたもの、何をしたか、体重、体調の変化など、ただ一日にあったことを記すだけのものです。

夜寝る前に、ベッドの中で書くことにしています。

淡々とした決め事です。


少し前に、背中から腰にかけて重い痛みが続いたことがありました。

夜になると右後背の腰のあたりが痛くて、鎮痛剤を飲んだり腰にカイロを当てて温めたり姿勢をいろいろ変えたり、ベッドの中でのたうっていました。

(今は処方薬を飲んで治まっています)

それだけのことで、日記を書くのも苦しくなります。

痛みがあると、ペンをとろうという気が起こらないこともあるわけです。

ベッドサイドテーブルに置いてある日記を眺めながら、苦痛のなかで日記を書いた冨五郎さんのことを、あらためて思いました。



4年前に冨五郎日記を知ったとき、僕は彼の享年と同じ39歳でした。

そのとき僕は、自分が死ぬかもしれないとはまったく考えていませんでした。

彼と僕はまったく違う境遇にあるまったく別の人間で、彼は最後まで日記を書き続けて若くして亡くなった、遠くて立派な人でした。

72年前に死んだ男と同じ歳であることに驚きつつも、彼が死の直前まで書き続けたことを、なにか立派な偉業のように考えていました。

もちろん、それは真に立派なことです。その精神のありようにはずっと敬意を抱いています。


でもいまは――もしできるなら――僕自身もそれに類することをやってのけたいと思っているのです。


痛みや苦痛のなかであっても、淡々とした決め事として、天気について書き記すこと。

このことを、僕はあらためて考えてみないといけません。



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