• みずき書林

生きちゃうかもしれない。


こんなタイトルではあるが、何か特別な変化が起こったわけではない。

その点はまず強調しておかなければならないが、検査の結果が劇的に改善されたとか、病状が大きく好転したとか、そういうことはない。残念ながら。

ただ、喜ぶべきこととして、この数カ月間、現状維持ができている。

そう、良くて現状維持であり、それこそがもっとも喜ぶべき状態なのだ。

そしてそれがまさに現状の維持であるからこそ、僕は自分に死が迫っていると考え続けることに倦み始めているのかもしれない。

このタイトルはそういう意味だ。


僕に限らず、僕の周囲で心配してくださっている人びともまた、そのように思い始めているかもしれない。

会えば、僕はかなり元気で普通に喋りもするし食べもする。見るからに痩せて衰えている、ということもない。ほんとうに幸いなことに。

はじめて病気についてこのブログに書いたときに、僕は「死ぬ死ぬ詐欺」ということばを使った。あれから9か月が過ぎ、スキルス胃がんのステージ4という病気は僕に限ってはまだトップスピードを出しておらず、いまのところ、その死の速度を振り切って逃走中と言っていい。早ければ半年以内、ということもおそらくはありえたのだから。

「詐欺」とは強すぎることばかもしれないが、とはいえ「あまりにも深刻に考えすぎだったんじゃないか」と自他ともに思い始めてもおかしくない時期なのかもしれない。


僕はどこまで希望を持ってもいいのだろうか。

洒落にならない病気、の思わぬ小康状態。

足元の氷が薄いのか、思っていた以上に厚みがあるのか、よくわからなくなりつつある。しかし少なくとも、明日明後日に氷を踏み抜くことは、どうやらなさそうな気がしている。

繰り返すが、「気がしている」というだけで、そこには何らの根拠もない。日々見つめている自分の身体の状態が比較的平穏だという以外に、楽観できる根拠はない。



こんなテキストを書くと、フラグになるかもしれない。

もしかしたら明日、僕は氷を踏み抜くかもしれない。いきなりそこまではいかないとしても、足元の氷が音を立て、この先の未来まで明らかな亀裂が入っていく様を見ることになるのかもしれない。

でもいま、僕はもしかしたらそんなことは当面起こらないんじゃないか……と思い始めている。


こんな僕の楽観を戒める要素はいくつかある。

絶対に目にしたくない光景が、聞きたくない知らせがあって、そこから目を逸らせるために、ぼく達は何でもないふりをし続けている。

こんなふうに書くことで、予め悲しみを少しでも目減りさせようと試みているわけだが、そんな細工が通用しないこともよくわかっている。

このことについてはこれ以上は書かない。ただ、いまの僕が秒で泣けるのは、自分の病気のことを考えているときではない、ということだ。


もしかしたら僕も、誰かにそんなことを思わせている?


生きちゃうかもしれない。

こんなタイトルで文章を書くことは、心配してくれる人たちを喜ばせるのだろうか。それとも不謹慎だと眉をひそめさせるか、いっそ悲しませるのだろうか。




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築地にある国立がんセンター(National Cancer Centerといいます。韻を踏んでる)は巨大な病院です。 築地方面から見上げると、その威容に圧倒されます。 患者数もすごく多いので、診察の管理はシステマティックです。 病院について自動受付機に診察券を入れると、大きなポケベルみたいな端末が吐き出されてきます。 その液晶画面にその日の診察や検査の予定が表示されています。 そして待合室ではこの