この週末、4月18日(日)に、ウェビナー
「戦争体験継承のダイナミックス―新刊『なぜ戦争体験を継承するのか』と対話する」
が開催されました。
小社の刊行物を中心にしたセミナーが開催されたこと(参加者もかなり多かったとのことです)、大変光栄なことでした。
以下に、本書の編集担当としての若干の感想を書いておきます。
僕は編集担当者ではありますが、気持ちとしては、非アカデミシャンの一市民という感覚で視聴し、このテキストを書いています。
(余談ながら、「非専門的一市民」という感覚は、学術・研究書の出版社社員が往々にして強く持っている感覚です。専門的学識や強い表現動機を持っている「一風変わった人たち」と一緒に、誰でも手に取れる本を作るという仕事をするからこそ、出版社の人間は、「普通であること」「マジョリティの感性を持っていること」に誇りを持っている場合があります。僕もそういうひとりです)
さて。
ウェビナーの論点は多岐にわたりましたが、多くの人にとって印象的であり、かつ白熱した議論になったのは、
「靖国神社の遊就館は平和博物館に含まれるのか?」
という点であったと思います。
以下、ウェビナーでの議論はもちろん、開催後に本書の編者・執筆者の方々とメーリングリストでやりとりした内容も念頭に置いています。
以下、一緒に本を作った先生方の発言やテキストを参照しつつも、このテキストで表明される意見は、いうまでもなく岡田個人のものです。
以下、いささか長くなります。
***
ふたたび、さて。
「靖国神社の遊就館は平和博物館に含まれるのか?」
という問いには、
「遊就館は、あるいはそれに類する館は、平和博物館には含まれない/含まれてはならないはずだ」
という登壇者・視聴者の大多数の考えや疑問が反映されていたことは明らかです。
以下、遊就館的なものが体現する主張に共感はしないというウェビナーの空気そのものには全く異論はない、と前提したうえでの話になります。
本書第2部には福島在行先生による
「平和博物館は何を目指してきたか―「私たち」の現在地を探るための一作業」
という総論が収められており、そこでは平和博物館の3つの定義が述べられています。
その定義に照らし、遊就館などが「平和博物館」であるか否かを議論するというのもひとつの方向性だと思います。
実際、福島先生もこの質問がこれまで度々投げかけられてきたものであることを述べておられました。
これは定義という厳密を要する議論でありながら、実は平和博物館という「よきもの」に遊就館的なものが含まれているべきではない、という感情も強く関わっている問題だと思います。
本書では、定義に従って実際のひとつひとつの館が平和博物館であるか/ないかを峻別し、その定義内に収まると決着がついた館のみをとりあげる、という方針はとりませんでした。
それは執筆者の方々にも共有されている編者の先生方の考えであるとともに、僕自身も強く賛成できる方針でした。
ウェビナーでも蘭先生が「(簡単にカテゴライズできない)現状を表現したかった」「部分を切り取って議論していいのか」「右も左も一緒に取り上げたかった」ということをおっしゃっていたように、編集の最初期から、この点は共通認識としてありました。
僕も本企画のもっとも面白い点のひとつは、「wamも遊就館も同居している」という点にあると思ってスタートし、そう思ったまま完成させました。
(再び余談ですが、休憩時間のあとに蘭先生が登場したのは、どこまで予定されていたことだったのか、僕は知りません。少なくとも事前のプログラムでは蘭先生の登壇予定はなく、直前のふたつの発表を受けて、急遽登壇されたように見えました。この「矢も楯もたまらず」という感じで自ら矢面に躍り出る様子は、さすが名将・蘭先生でした)
話を戻すと、「wamも。遊就館も。」というのは当初からの計画通りであり、このふたつを含む15館が並んでいる目次案の壮観を眺めて、編者の3先生と僕はひそかにほくそ笑んでいたのでした。
たとえば本書第2部の目次から、遊就館と知覧としょうけい館を取り除いても、それはそれで成り立ったでしょう。
ある種の人びとにとっては、より目に優しい構成だったかもしれません。
でもそれでは、誰も揺さぶらなかったでしょう。
本書のタイトルに端的に表した「なぜ?」という疑問のことを考えても、このような現状をそのまま捉えることは、面白い試みだと思えるものでした。
換言すれば、今回のように「なぜ遊就館を載せたのか?」という議論に応えるほうが、「なぜ遊就館を載せなかったのか?」という問いに応答するよりも(あるいはその不在に全員で目をつぶるよりも)、外部に開く議論になったということです。
本書のそれぞれのタイトルの中での白眉は、福島先生の総論のサブタイトルだと思っています。
「「私たち」の現在地を探るための一作業」であるなら、靖国遊就館を排除し、視界の中に厳然とあることを無視することはできない、ということであろうと思います。
「「私たち」の現在地」には、様々なものがくんずほぐれつ混在しています。共感できる展示・運営をしている人たちもいれば、お互いに眉をひそめたくなる活動もあるでしょう。
しかしそこにも、何らかの思いや考えの元に活動している人がいるのは確かです。そこに接近するのは、危険かつ不快なことかもしれません。しかしそのように考えている人がいるということを、視界から排除しないようにはしたいという方針でした。
もちろん、議論を受けて蘭先生もおっしゃっていたように、平和博物館の定義の内と外という議論を主眼にしていないことを、本の中でもっと強調するべきだったのかもしれません。
この目次だけを見て、ある種の人びとが「研究者も、遊就館が平和博物館だとオーソライズしている」と鬼の首を取ったように声高に叫ぶ可能性もあるのかもしれません。
(そういう人には、一言「読め。山本晶子先生の本文を」と伝えれば事足りると思っていますが)
どなたか忘れましたが、ウェビナーのコメント欄に、
「遊就館が平和博物館として定義されたことがショックでした」
というコメントがありました。
前後の文脈がわかりませんし、追加のご発言があったわけではないので細かいニュアンスはわかりません。
ただもし、遊就館をとりあげたことには思考を揺さぶる意図があったのではなく、思考を固定化する意図があったのだと解釈されたのだとしたら、我々は舌足らずな編集意図を省みなくてはならないと思います。
非専門的一市民として言うと、こういう本を作るときに「内と外」を分けて「内」だけで固まる傾向が強いのは、最も克服が難しいことのひとつだと感じています。
「内と外」という言い方がまどろっこしいなら、はっきりと「右と左」と言ってしまってもいいでしょう(個人的にはあまり使いたくないことばですが。いつか、右翼/左翼、保守/革新、愛国/軍国といったことばを歴史的に丁寧に腑分けする本を読んでみたいものです)。
編者・執筆者の思想も大きいですし、出版社のカラーということもあります。そもそも〈あの戦争〉について、呉越が同じ舟(本)に乗るという文化風土がない、ということもあります。
その結果、この分野については、編者と版元名さえ眺めれば、中身は読まなくてもだいだい何が書いてあるかわかる、という本が氾濫することになっています。
まあ、それはそれでかまいません。さっき「克服が難しい」と書きましたが、実際には僕は克服したいとも思っていません。もし現実に、あんな人やこんな人から「本を出しませんか」なんて言われたら、僕も速攻で断るでしょうし。
しかしだからといって、たとえば蘭先生、小倉先生、今野先生が編者である本のなかで、ひめゆりやwamと並んで遊就館を取り上げたことが、なにか裏切りや失望のように捉えられるとするなら、それはやはり違うのではないかと思うのです。それはある勇敢さだったのだと擁護したくもなります。
自分たちのラインの「内」にあるものだけを論じ続けているかぎり、「戦後○年」は終わることなく、伸びるだけ伸び切った挙句に、次の戦前に接続されていくことになるでしょう。
反面教師も、やはり教師ではあると思うのです。
繰り返しますが、遊就館にも他の館にも、何らかの思いをもって活動をしている人がいます。それが「「私たち」の現在地」にあることは、否定できませんし拒絶できません。
彼らもまた、「私たち」であるはずです。
そこに接近することは、そのような思考に絡めとられ、感染する危険をはらむかもしれません。あるいはそこに近寄っただけで、感染者として周囲から忌避される恐れすらあるかもしれません。でもそこに降りて行かないと、研究はできません。
というか、そこにどのように接近していくかこそが、戦争という複雑な構造に迫っていこうとするときに、ひとつの欠かせない挑戦になるのだと思います。
(考えてみればこれは、本書の中心タームのひとつである「トラウマ」の扱いにも似通う構造かもしれません)
そのようなことを考えたので、備忘録として書いておきます。
しかし、長いな。
Comments