火曜日に8クール目のケモを受けてきた。
昨年の9月に病気がわかって以来、1クール3週間×8クール=半年間を完遂するのが、ひとまずの目標だった。
まだ8クール目が終わるにはあと3週間かかるとはいえ、ひとまず点滴は終わったことになる。
正直、昨年の9月の段階では、半年後はもっともっとボロボロになっていると思っていた。
ヘタしたら、完遂できずに力尽きているかもしれないとも。
でもどうやら無事に完走できそうだ。
しかも、覚悟していたよりずいぶんまともな状態で。
ここ最近僕に会った人は、言われなければ僕がけっこう重篤な病気を持っているとは信じられないかもしれない。その程度には見た目は普通だ。
スキルスは進行が早いとされている。
しかもステージ4で手術はできない。
青白い顔をして、やせ衰えて、チューブにつながれて、無菌室みたいな白い病室で寝ている、とイメージしていた。
ちょうど諏訪敦さんが父親を描いた画のように。
というか、いまだに病名のネット検索すらしていない僕が持っているスキルス患者の唯一のイメージは、画家・諏訪敦の描いた臨終の父親だ。
それにしても、げに恐るべきは具象絵画である。
それはイメージを拡散させず、焦点化する。
白いベッド、白い掛け布団、白いシーツ。白い壁。白い医療機器。
さまざまな解釈や思い入れを入れ込むことは可能かもしれない。でも誰がなんと言おうと、この超絶技巧を凝らした画はスキルスの父親を描いている。その点において具象絵画は揺らぎようがない。
僕も近い将来、このような風景の一部と化すのだろうか。
考えてみれば、僕にとって諏訪敦は「死んで(死に瀕して)横になっている人間を描く画家」だ。
父親しかり、大野一雄しかり。祖母を描いたあの画は言うまでもなく。
この画(画家の公式サイトから観ることが出来る)をこんな恐怖とともに観ることになろうとは、2019年の夏にはじめて画家に取材したときは思いもしなかった。他にもたくさんのぜんぜん異なる画を描いてもいる。にもかかわらず、僕にとっての諏訪敦は、そのような、あちらとこちらをまたいで横たわる寝姿を描き続けている画家だ。
本当に大事なことは(まだ)ここには書けない。
半年が経って、予想に反して、まだ元気で立っていることを感謝し、喜ぼう。
いつか、死んで(死に瀕して)横になっている人間として自己を再発見するときには、絵のように静かにありたいと(いまは)思っている。
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