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  • 執筆者の写真みずき書林

見る者/見られる者――ドキュメンタリーについて(上)


1


ごく大まかにわけて〈文体〉ということばにはふたつの意味がある。

ひとつは口語体と文語体、あるいは漢文体、書簡体など、その文章の様式を規定する意味である。

これは客観的に判断しやすい。

もうひとつはより曖昧な、その書き手特有の書き方の特色といった意味である。

この点については、当の作者本人にとっても言語化することが難しいであろう。ただ、たしかにはっきりと説明するには相応の分析と言語化が必要ではあるが、たとえば森鷗外と村上春樹ではその〈文体〉がまったく異なることは、一読すれば容易に直感できる。


前者の意味では、このブログに書かれているテキストのすべては口語体であり、その多くは、書簡体を意識した敬体(です・ます調)で書かれている。

いっぽう、今まさに書き進めているこのテキストそのものは、論文体に近い常体(だ・である調)で書いている。

その両方に、私自身が意識していない後者の意味での〈文体〉=特色や書き癖らしきものがあるのかどうかは、自分では判断できない。


なお私の場合、敬体の場合は一人称が「僕」になり、常体の場合は「私」になる。そのほうが書きやすいからである。ちなみに普段の会話における私の一人称は「僕」であり、会議やスピーチのときなどを除けば「私」(発話される場合は「わたくし」と言っているはずである)を使うことはまずない。ところがメールの場合は、敬体を用いながら「私」を使う場合が多い。メールではごく親しい相手をのぞけば「僕」のほうが例外的である。つまり――一人称代名詞については、そのバリエがやたらに多い男性だけの使い分けなのかもしれないが――想定される読み手が近しい場合や特定できる場合は〈敬体+普段の人称である「僕」〉のほうが使いやすく、特定できる読み手が遠い場合は〈敬体+自分にとっても距離感のある「私」〉となり、読み手が不特定多数あるいは想定されない場合は、〈常体+「私」〉を使用している。


ここに書かれているテキストは、私が仕事の息抜きや移動中に、あるいは夜中に書いているものである。

(移動中でもちょっとした空き時間でも書けるうえに中断も再開も容易なので、evernoteに書いていることが多い)

こういう場に書いている以上は不特定多数が読むことを覚悟はしているが、実際には特定少数の相手を念頭にして書いていることが多い。よって普段は、相手との距離がもっとも近い(同時に自分との距離も近い)、〈僕〉+敬体の文体で書いている。

いま書いているこれは例外的に、完全に自分自身のための文章になるはずである。以下、常体と〈私〉を用いることで、読み手を(なるべく)意識せず、自分自身ともできるかぎり距離をとり、自分の頭を整頓することを主目的にして書き進めていくことになる(書き始める前から何となく予感されていることだが、この文体を選択するということは、書かれる内容はそれなりに七面倒くさいものになる。よって、主目的はほぼ達成されないままになるだろう)。


こんな前提を長々と書いたのは、これから書くことになるテキストが、読む者と読まれ者、つまり見る者と見られる者との距離感をめぐるものになりそうだからである。



2


われわれはカメラを向けられるとポーズをとる。

プロのモデルのように格好をつけるのではなくても、姿勢をととのえいわゆるキメ顔を作り、あるいは照れ笑いを浮かべ、普段からこんな姿勢でこんな顔なんだと、それが自分にとって〈自然〉〈普通〉なんだというふりをする。

カメラを意識していながら、あたかもそれを意識していないように努めようとする。

カメラを向けられてから撮り終わるまでは、居心地の悪い数秒間である(だから撮影者は迅速に撮る技術を磨く。モデル撮影の業界では、有能であればあるほど撮影が早く終わる、というのはよく聞く話でありおそらく事実だろう。そこまでの技術も配慮もできないが、私も取材で誰かの会話している様を撮影するときには、はじまって10分ほど経ったときと、終わる10分前くらいに、それぞれ3分ずつくらいでさっさと撮ってしまい、それ以外の時間帯にはむやみにカメラを向けないように心がけている)。

そのとき、私たちはなんとか自然にふるまおうとするが、カメラを向けられたときから、つまり自然であろうと意識したときから、否応なく不自然になる。誰かに見られていると意識したときから、自然に普通どおりにふるまうことは困難になる。


カメラのレンズは眼である。同時に、多くの場合そのカメラは、撮影者の目を隠すことになる。

見る者の眼はファインダーをのぞいているから見られる者からは隠されてしまい、機械のひとつ眼がそれにとってかわる。自然界にはひとつ眼の動物はいない。ひとつ目小僧からサウロンまで、ひとつ眼は不気味で恐ろしいものである。

まして専門的なカメラはより巨大で大仰なものになりがちである。テレビ撮影用のカメラを向けられて――それは眼であるというよりは、バズーカ砲のようなものを連想させる。見られているというよりは、もはや狙われているという感じがする――それでも平常心を保っていられる人は、そんなにはいないだろう。


そういう意味では、昨今主流のスマホやモニタ付きのハンディカムは、見られる側の緊張をいくばくかはやわらげているかもしれない。ファインダーをのぞく必要がなく、カメラは見る者の眼よりも低く、あるいは高く設定される。見る者の眼が隠れないために、見られる側もやや落ち着いていられるかもしれない。スマホに至っては、レンズがどこにあるかわからないくらい小さくもある。

しかしとはいえ、見られる者の居心地の悪さは緩和されこそすれ、完全に解消されることはないだろう。


見られることの居心地の悪さに対して、それがテキストとして見られる場合は、文体の選択はそれに対応するためのせめてものポーズになる。かつて丸谷才一が『文章読本』のなかで「文章を書くときはちょっと気取って書け」と言っていたのは、なかなか含蓄のある言葉である。私はこの人称と常体を選択することで、ちょっと気取って書いている。そしてそれによって自分を守っている。

では、カメラを向けられて自分自身が直接見られる場合には、どういう対処の仕方がありうるだろうか。

そしてそこに現れる映像は、どこまで〈自然〉で〈普通〉たりえるだろうか。

(つづく)


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