前回の続き。
うちは出版社ですから、アウトプットの方法は本になります。
それも、写真集や画集ではなく、文字メインで構成された、いわゆる棒組の普通の本です。
今回は同じテーマで二冊の本が同時進行していると書きましたが、そのうち一冊は、文字を創作の中心にしていない表現者たちに取材する予定です。
たとえば映像作品や写真や絵画や音楽といった表現で、戦争体験の継承をえがいている人たちから話を聞きだしていくことになります。全員が、戦争体験のない世代です。
そういった方向性から〈継承〉について深掘りした書籍はないはずで、かなり面白い本になるのではないかと期待しています。
そしてその一方で、これはかなり難しいことだなとあらためて思いました。
「なぜ戦争をえがくのか」
「なぜ経験したことのない戦争を創作のテーマに選ぶのか」
「〈継承〉とはどういう行為によって可能か」
といったことが、それぞれの表現者から聞き出したい骨子ですが、それは簡単に言語化できることではありません。
「言葉にできないから、作品を見てくれ」としか言いようのないことなのかもしれません。
しかし我々は、それを何とか言語化して、本として表現しようとしなければなりません。
これは言葉にならないことを言葉にしようとするプロジェクトになりそうです。
被爆者の体験を聴いて画にする活動をしている高校生が、作品の完成後に「体験できないということを体験した」と言ったという話をうかがいました。自分には体験できない(そしてすべきでもない)被爆という圧倒的体験を実際にした人に親しく話を聞いて、体験の不可能性そのものを体験したと感じたということです。
高校生の彼らが描いた画も見せていただきました。
全身が真っ黒に焦げて、腫れあがった唇が太く、瞼はすでにないのか目を見開いている父親の画。赤い唇と真っ白い眼球以外はすべて黒く焼けています。その父親は白いシーツを敷いた布団の上に寝かされています。体験者である子どもは、枕元に立っています。強烈な父親の表現ととともに、翌日の広島にしては布団が白すぎるな、と違和感を抱きました。するとそう思ったのを見透かすように、画を見せてくれた先生が教えてくれました。
本当は戸板に寝かされいたんだけど、体験者と高校生が話し合って、白いシーツを描くことにしたのだと。
実際の記憶=体験とは違うけれど、子どもである体験者は父親をシーツに寝かせることを望み、描き手である高校生もそのように描きました。
こういった高校生の書き手たちの発言や選択に、言葉にするということのヒントがあるようにも思えます。
彼らの先に、これから我々が話を聞こうとしている人たちもいるはずです。
この企画には多くの表現者が登場する予定ですが、おそらく各々の作品論にはならないし、すべきではないのでしょう。
それぞれの作品についての語りを引き出すのではなく、作品の周囲をめぐる語りを引き出すことが必要なのかもしれません。
作品に前景化されているものについてではなく、背景にある見えないものについて聞き出そうとするべきなのでしょうか。
取材する側とされる側が一体となって、「言葉にならないもの」を言葉にしようと試みること。
(「けっしてことばにできない思いが、ここにあると指さすのが、ことばだ」長田弘)
「言葉にできないから、作品を見てくれ」と言われてしまってはいけません。
最終的にはそうとしか言いようのないことであっても、そこにある思いを――もしかしたら当人すら明確に自覚していないかもしれない思いを――何とか引き出して言葉にすること。
簡単なことではないけれど。
今回の企画では、あえて図版をまったく使わないで文字だけで構成しようかとも話しています。
作り手側が「作品を見てくれ」と言うのではなく、読者が「この言葉を受けて、作品が見たくなった」と思うような本が作れたら、それが本書の、つまり言葉の達成になるのかもしれません。
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