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  • 執筆者の写真みずき書林

記憶をつなぐ想像力――後藤悠樹『サハリンを忘れない』


後藤悠樹『サハリンを忘れない――日本人残留者たちの見果てぬ故郷、永い記憶』

(DU BOOKS、2018年)


この本があつかう南サハリン(樺太)の歴史的背景について過不足なく説明するのは、僕の手に余ります。

ひとまず本書から、以下の一節を読んでください。


「大陸生まれのロシア人が、日本人のおばあちゃんの作った韓国料理をたくさん食べてねと私にすすめてくる」


〈私〉とはいうまでもなく本の著者、この取材時に29歳の日本人である写真家・後藤悠樹さんです。

この一節を読むと、サハリンの特異な空気とそこで暮らす人びとのごく普通の営みが見えてくるようです。

上記の何気ない一文に加えて、サハリンは歴史的には100年ほどの間に、日本とロシア・ソ連の間でたびたび支配権が移り変わってきた地域であるとだけ付け加えておきます。


*****


このような著者自身の文章とともに、本書では取材相手の以下のような語りが紹介されていきます。


「私は、情けない人生を生きたようです。(中略)私は私の一度しかない人生がこういうふうに終わってくのか、って泣きました」(木村文子さん)


「その家では、誰も日本語を話さないし、みんな朝鮮語で話をしててね。旦那の姉さんも弟も、私のことをいじめていじめて……。チョッパリ[日本人に対する蔑称:朝]、チョッパリ言って、おまえら日本人のせいで、国へ帰れなかったって……。(中略)その頃わしだまーって見てみたら、人間というのは、誰か他人を泥の中に入れてしまわないと気が済まないと思っていた」(松崎節子さん)


しかし、激しく動く歴史のなかで震え続ける10名の人びとの、このような語りにもかかわらず、本書全体は、温もりにあふれています。

後藤さんは緑豊かなダーチャ(菜園)で満面の笑みを浮かべる木村さんの写真を収めます。

ずっと一緒に生きてきた妹を失ったハツエさんは、後藤さんの滞在中、収穫されたばかりの苺をたくさん食べさせてくれ、帰る日には瓶につめて持たせてくれます。

グリーシャさんと後藤さんは、グリーシャさんの母が日本語で署名したパスポートを見つけて、顔を見合わせてゲラゲラと大笑いします。

吉本キヨさんと娘のゾーヤさんとは、20年以上前の日本の音楽番組のビデオテープを繰り返し一緒に観ます。


「そこには、私の想像など及ばない深い悲しみと、生活の明るさがあった」

と後藤さんは書きます。

一見なんでもない文章ですが、そのように書くために彼がどれくらい取材し、対話し、想像したかが、伝わってきます。



ここには〈聞き取り調査〉〈情報の採集〉といった雰囲気はまるでありません。

(本書には、少数民族について調べている研究者の一団がやってきて、DNAを採取し、フラッシュを浴びせて写真を何枚も取り、勝手に録音をはじめる場面に居合わせた描写があります)

後藤さんはそれぞれの人たちと個人的な関係を結び、彼らから歓迎されています。

彼らは後藤さんを家に泊めてごはんを一緒に食べ、帰るときには見送って、次はいつ来るのかと訊き、「日本に戻る前に遊びに来なさいっ」と冗談めかして命令します。

その親密な空気が、本書全体を覆っています。

著者の人柄なのでしょう、冷酷な歴史を背負った過酷な境遇をあつかう手つきが、実に丁寧で自然です。

目の前の人と語らいながら、おそらく彼は想像しているのでしょう。その人がいま目の前に到るまでの70年以上の人生のことを。

あるいはもっと以前の、彼らの両親や祖父母がその場所に到るまでの長い時間のことを。


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そのように人びとと寄り添って手と足を動かしながら、著者の目はほんの少し先を見ています。


「もうあと10年もすれば、私たちはまたひとつの世代を見送ることになるだろう」


そのように書いているとおり、いずれ語りが消えていく様が、この一冊の中で表現されているようです。ここに登場する多くの語りは、きちんと吟味されて並べられています。

この本そのものが、薄れゆきいずれ消えてしまう記憶そのものを表現しているようです。


本の前半~中盤までで描かれる人々は、多くのことを語っています。そのぶん割かれているページも多くなっています。

冒頭付近の方々はたくさんの挿話と語りを持っていて、後藤さんとの濃密な交流がそのまま描写されています。

上記の木村さんと松崎さんは、冒頭に紹介されるふたりです。

思い出は色濃く、いまの暮らしぶりの表情も豊かです。

写真は、その間に少しずつ挟まれています。



そして最後に近づくに従い、写真のページが増えていくようになっています。


とくに印象的なのは、最後近くに配されている、高齢で記憶がほとんどなくなってしまった佐藤君子さんと、盲目の女性よし子さんです。


「みんな忘れてしまったよ」と語る佐藤さんのテキストは4頁しかありません。

彼女はもう、昔のことを喋れるだけの記憶を持っていません。

しかしその4頁のあとに、まるで彼女の記憶を補うかのように、たくさんの写真が配されています。

佐藤さんの横顔があり、雪の降る山肌、カーテンのかかった窓をとらえた写真が続きます。「私はもうだめよ……。こうやって、まぶしいときはだめよ……」と語る佐藤さんの見ている景色のように、まぶしいような真っ白い写真です。

さらにページをめくると、そこからは多彩な色彩をもつたくさんの人々の肖像画が続きます。

サハリンに住む人々の、様々な国籍や年齢が、まるで佐藤さんの失われた記憶のように立ち現れます。


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目が見えないよし子さんのページも、極めて印象的です。

ここでは、目が見えない彼女と、見る以外に方法のない写真というメディアのコントラストが、強く感じられます。

よし子さんは5歳で視力を失います。日ロ政府間の都合で引き揚げができなくなった父が自殺した後、たったひとりで北朝鮮に渡って働き、過酷な労働のなかで背骨を折る事故にあい、サハリンに戻ります。


「裏道ばっかり歩いてきたのよ。えい、忘れてしまえー! って自分自身に言い聞かすの。私はそんな人生を70年近くも歩いてきました。人生70年生きてきたけど、何もいいことなかった」(よし子さん)


このように語るよし子さんですが、彼女との交流を描いた文章は、彼女の気丈な意志の強さを感じるものです。後藤さんが、よし子さんと個人的に親密な関係を築いていることがよく伝わってきます。

そして最後によし子さんは言います。


「私はねえ、今はうれしいのよ。自分のお金で他人の世話にもならずにこうして暮らしているでしょう? ほらご覧なさい、高いものはなにもないけれど、パンとお茶はたくさんあるわよ。私たちの父も毎日言っていたわよ。『誰か来たらお茶でもあげてやれ』って」

「だから今、私は胸を張って言えるわ。――食べなさい、と」


後藤さんはそのときのよし子さんの様子を「迫力のある気品に満ちていた」と表現します。

その「迫力のある気品」を、最後にレイアウトされた写真で、僕たちも感じることができます。

一面の桜の壁紙を背景に点字の本をもって座るよし子さん。背景の満開の桜とよし子さんのカラフルなシャツの柄があいまって、寒色系の色彩が濃い本の中でも、ひときわ鮮やかな印象を残す一枚です。



そして最後に登場するのは、1985年生まれの著者と同い年の青年ヴォーヴァです。

日本人の祖父をもつ、ロシア人。

登場するほかの人たちに比べてずっと若い。

彼は「じいちゃんのロシア名はヴォーヴァだから、オレの名前はヴォーヴァになったんだ」と言います。

限られた紙幅のなかで、この言葉を選んで載せた著者の意図を思います。

ロシア人の彼は日本人の祖父と生前に会ったことはなく、それでもつながっています。

それに続く一番最後の写真は、曇天の海に降る雪をとらえた、真っ白な一枚です。

白い空と海はつながっていて、境目は見えません。


とてもよく練られた構成です。


*****


「私はいつも不思議だった。厳しい境遇の彼女たちがなぜ、そこまで真っ直ぐに明るく生きていけるのだろうかと。今思うと、私が何年もサハリンに通い続けたのは、彼女たちのその強さの理由が知りたかったのかもしれない。ある時そのことを何気なく知人に訊ねると彼女はこう答えた。

――きちんと向き合って、すべて自分のものにしてきたから」


なんでもない人びとの人生の背後には、歴史があること。

その歴史は、われわれとも無関係ではなく、地続きであること。

それを静かな明るさで想像させてくれる本でした。

記憶をつないでいくことの意味を問いかけながら、白いテーブルの上にそっと置かれているようなたたずまいの本でした。



「私はインタビューをやめにした。語られないまま消えていった思い出や人生は、どこに行ってしまい、どういう意味を持つのだろうか」


記憶を失いつつある佐藤さんと向き合いながら、著者はこのように綴ります。

この感慨は、おそらく後藤さんが駆使する写真というメディアとも関わっているのではないかと推測されます。一瞬を切りとり、限定されたフレームの中でその瞬間のすべてを固定できる写真と、膨大で茫漠として、いずれ消えてしまう人の記憶。

サハリンに住む人びとの思いと姿は、カメラを手に記憶と歴史という底のないものの前に立つ、後藤悠樹という作家がいなければ伝わらなかったものです。


*****


写真と文章を駆使してサハリンと日本をつないでいる後藤さんの活動は、とても個性的で唯一無二です。

同時にもちろん、表現方法や対象とする場所は違えども、そういう活動をしている人は、他にもたくさんいます。

彼は特別な人ですが、彼だけが特別なわけではありません。

もしそういう人が消えてしまったら、彼ら彼女たちの思いはどこに行ってしまうのでしょう。「消えていった思い出や人生は、どこに行ってしま」うのでしょう。

僕にはわかりません。

だから彼ら彼女たちは、文字通りかけがえがなく、消えるべきではありません。

ただ、いつか彼らがいなくなったとしても、彼女たちの残した表現のなかに、その思いは留まるでしょう。

こういう人たちが思いを込めてそっと作っている本はいいものだと、あらためて感じます。


この2年間ほど、近現代史にかかわる本をいくつか刊行しました。

そのときに、メールであれ会話であれ、関係者の間でもっとも使われたことばは、おそらく「つなぐ」「つながり」といったことばと、「想像力」でした。

本書もまた、記憶をつなぐための想像力を豊かにしてくれるような本でした。



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