直接の知り合いでコロナで亡くなった人はいない。
ウクライナ人に直接の知り合いもいない。
僕が悲しむのは、コロナ禍について、ウクライナ侵攻について、直接の知り合いが悲しんでいるからだ。
誤解を恐れながら書けば、何万人もの人が亡くなっていることは確かに悲劇だが、そのことが身を切られるように切実に辛いわけではない。それよりも、そのことを悲しんでいる人が身近にいることが悲しい。
こういうことを書くと、まさにその「身近にいて悲しんでいる人」から顰蹙を買うかもしれない。
でも僕の想像力というのはそういうふうにしか働かない。
あなたが悲しんでいるのが辛い。
10代や20代のころは、40歳オーバーなんて立派で完成した大人だと思っていた。これはほとんどの人が思っているクリシェだろう。
そしてここからも定型文だが、いざ40歳を超えてみると、まったく立派でもなければ完成してもいない、どうしようもなく子どもっぽい自分を発見することになる。
いつまでこんなふうに子どもっぽいのかと自問すれば、答えはもうでている。
死ぬまでだ。
ほぼ確実に、僕は死ぬまで迷ったり悩んだり、これでいいのかと逡巡しながら過ごすことになるだろう。
ここ最近ずっと、指先が常時痺れている。抗がん剤の副作用だ。
サランラップをきつく指先に巻きつけているような感覚。なにをしていても薄皮一枚隔てているような違和感があり、血行も悪い感じがする。
治療を始めたばかりのころは、冷たいものを触ると痺れた。それがすごく嫌だった。たとえば手や顔を洗ったりといった作業は、日常の中で無意識にやっていることだが、何気なくそういう動作をするたびに、手先が痺れて身体の異変に気づかされる。その感覚がすごく嫌だった。
それがいまは、何もしていなくても常時痺れがある。
そしてそうなると不思議なもので、痺れにも慣れつつある。
違和感はまだある。でも、人間はだいたいのことに慣れる。
それが死につながり得る、致命的な体調不良の兆候だったとしても。
僕が死ぬ日にはどんなニュースが流れるのだろう。
ウクライナはどうなってる? コロナは?
まさにその日に、大きな地震が起こるかもしれない。
「身近にいて悲しんでいる人」はやっぱり悲しんでいるだろうか。
この文章は、断片的な思考を書き連ねたに過ぎない。
結論も落ちもないし、エッセイと呼ぶには構成も弱い。
15分で書き飛ばし、推敲も一切していない。
ただ、こんなことを考えている。というだけの記録。
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