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  • 執筆者の写真みずき書林

通夜/葬式について


最近、妻と葬式について話をする機会がありました。

いうまでもなく、僕自身の葬式です。

元気なうちに――きちんと意思疎通ができるうちに――こういったことも意見交換しておかないといけません。


正直、自分の葬式をどうするか/どうしたいかという点については、あまり考えたことがありませんでした。

自分が主役とはいえすでにその場にはいないのだから、どうでもいいや、というのが正直なところでした。

でも、考えてみればそんなことを言っている場合でもないのかもしれません。

自分の希望くらいは伝えておかないと、いざというときに家族が戸惑うことになってしまいます。

具体的には、一番に決めておかないといけないのは葬式の規模だろうと思います。家族だけでやるのか、それとも親しかった人たちにもある程度オープンにするのか。


……とここまで書いて、「葬式」と「通夜」をごっちゃにしていることに気づきました。

こういうことを書くときにはつい「葬式を……」と書いてしまいますが、正確には「通夜」のことを指している場合も多いですね。

このテキストもそうです。

「葬式」は家族だけのこじんまりしたものを基本にするということでいいと思います。

考えるべきは「通夜」の規模です。

以降、「通夜」と統一します。


さて、通夜をどうしたいかと妻に問われたときに、僕が思い浮かべたのは、松本智秋さんのときのことでした。

僕は大阪で行われたお通夜に列席し、そこで智秋さんの顔を見ることで、はじめて彼女の死を実感しました。

逆にいえば、もしあのときお通夜をやっていなくて(もしくは参列していなくて)彼女の顔を見ることがなければ、おそらく僕はいまだに智秋さんの死を本当には実感できないまま、彼女が死んだという事実を持て余したまま過ごしていたかもしれないのです。

亡くなったと知ることと、それを本当に実感することとは別のことです。

伝聞でその死を知ることと、実際に着物を着て目を閉じて、唇をほんの微かに開いたその死に顔を見ることとは、別の経験と考えるべきでしょう。

そして相手の死を実感するためには、そういう手に触れられるほど具体的で、目に見えるほど即物的な経験が大切なのかもしれません。

少なくとも、僕はそういう機会があってよかったと思っています。智秋さんに会えて、お母様と泣きながらお話をする機会があって、よかったと思っています。

そうでないと、たとえばいつまでも既読がつかないLINEだけが、相手の死を実感するための唯一のよすがになってしまったりします。

通夜というのは、死を実感をするための機会なのだと思う。

そんなことを妻に喋りました。


残された家族には負担かもしれません。

でももし可能なら、親しかった皆さんに顔を見てもらって実感してもらう時間を設けたい。

いまはそんなことを考えています。

遺影は、後藤悠樹さんに撮ってもらった写真がいいかな。


さてさて、果たしてみんなは来てくれるのか?

そして考えてみれば、みんなが集まるかもしれない会合に僕だけいられないというのも悔しいものです。まるで、ひとりだけスケジュールが合わなくて参加できない飲み会みたいだ。

できれば僕もその場にいてみんなと談笑したい。

絶対無理だけど。




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