• みずき書林

1376――帝国のはざまを生きる


蘭信三/松田利彦/李洪章 /原佑介/坂部晶子/八尾祥平 編

帝国のはざまを生きる――交錯する国境、人の移動、アイデンティティ


今月完成する2冊のうちのひとつ。

その編著の分厚さから「社会学界の京極夏彦」とひそかに読んでいる(笑)蘭信三先生をはじめとする6人の編者。26名もの執筆陣。728頁。




数日前、ウクライナの難民が200万人を超えたとのこと。

難民およびその子孫たちがどのような人生を歩むことになるのか、本書に目を通すことで、その一端がわかります。


難民は、戦争が終わったらまた昔の居場所に戻れるわけではありません。

戻る人もいれば、留まる人もいます。

戻りたいと思いながら留まらざるを得ない人もいるでしょうし、留まりたいと願いながら戻らざるを得ない人もいるでしょう。

彼らの第2世代・第3世代となると、その立ち位置は所与のものとして生まれたときからついて回ります。

自分はなぜここにいるのか。

自分のルーツはどこにあるのか。

自分はなに人なのか。

そのようなことに納得ができないまま、生きていくことになるわけです。


たとえばウクライナという国家がロシアに併呑され、滅亡・消滅したとします。

難民第1世代は、だからこそより一層、自分たちはウクライナ人だという誇りを強く持つことになるでしょう。

しかし、いわゆるロシアでロシア人として(あるいはそれぞれの避難先の国々で)育つことになる第2世代・第3世代はウクライナをどうとらえることになるでしょうか。あるいは〈祖国愛〉というものを。

たとえば以下のエピソードを読んでください。


「九〇数歳になる台湾人男性G氏が筆者に聞かせてくれた話である。彼は、日本の植民地統治のもと台北工業学校に進学した。同窓の大半は当時内地人と言われた日本人であった。戦後数十年後ぶりに開催された同窓会において、彼が日本人の同窓生からかけられた言葉は、「お前、日本語、下手になったな」であった」(本書第14章、上水流久彦論文より)


〈帝国のはざま〉で生きていくことを余儀なくされた人々の齟齬と無理解が端的に描かれています。


大日本帝国は、中華人民共和国と中華民国というふたつの中国の誕生に大きな影響を及ぼしました。満洲帝国というすでにない虚構的な国をルーツとする人も生まれました。

東南アジアや南洋などかつての支配地域でも多くの難民・移民・引揚民・抑留民を生み出しました。

もちろん南北朝鮮についても同様です。

(恥ずかしながら告白すると、僕は朝鮮戦争を「特需を生み出し、日本の経済復興の端緒となった」という教科書的な認識でしか捉えられていませんでした。旧宗主国としての日本が、かつての敵国の兵站基地となり、かつての支配地域での戦争に関与し、自らは経済的に潤うこと。この本に関わってはじめて、僕はその歪さを意識しました)


そして大日本帝国は消滅し、アメリカ主導の元でわれわれは民主主義国家となりました。

そのことの是非はともかくとして、われわれは自分たちの国がそのような他者による接ぎ木でできていることに自覚的ではありませんでした――つまりかつて帝国であったことの精算ができていないということです。

上記の引用エピソードはそのことを端手に示しています。


いまもなお〈帝国のはざま〉で自らの居場所を探している人がたくさんいます。

それは過ぎ去った歴史ではありません。

時間的・空間的双方の意味における〈帝国のはざま〉で他者をスルーし、他者に不用意なことばをかけ続けているわれわれがいます。

そしてそれはウクライナで繰り返されつつあります。


***


最後に余談を。

ほぼ同時刊行となった、

福間良明編『昭和50年代論――「戦後の終わり」と「終わらない戦後」の交錯

と本書、

『帝国のはざまを生きる――交錯する国境、人の移動、アイデンティティ』

はサブタイトルに「交錯」ということばを共通して持っています。

これはまったく意識していなかったことです。

実際のところ、本の編集も最終盤になり、書誌情報を登録する段階になって初めて認識したことでした。


〈昭和50年代〉は政治の季節とバブル文化をつなぐ、あるいは戦後の終わりと終わらない戦後をつなぐ、エアポケットのような期間でした。

〈帝国のはざま〉も、帝国と民主主義国家というふたつの日本、本土と台湾というふたつの中国、南と北というふたつの朝鮮をつなぎ、さらに満洲や対馬、沖縄という境界線上にある地域をつなぐことばです。


「いくつかのものが入り混じる」ことを意味する〈交錯〉ということばが共通する大部な二冊が、この時勢のなかでどのように評されることになるのか、見守りたいと思います。