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  • 執筆者の写真みずき書林

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「みんなひとり出版社やればいいのに」

(北尾修一、百万年書房代表/tweetより)


能力と才能の差とは何か。

能力は数値化できる。数値化できるということは、能力というのは相対的なものだ。

ある作業を完了させるのに1時間かかる人と2時間かかる人であれば、1時間でコンプできる人のほうが優秀なのは間違いない。能力とはそのような、高低差の問題であるだろう。

50点の人もいれば75点の人もいれば、100点をとれる人もいる。

ということは、能力とは交換可能なものでもある。高い能力を持つ人は低い能力の人にとってかわることができるし、より高い能力の人が現れたら、その場を追われることもある。

高低差があるゆえに入れ替え可能であること。「その人でなければならない」という必然性がないこと。

それが能力である。


才能とはそういうものではない。

才能は、0か100かであり、あるかないか、ということだ。

その人がいるから、その作品や表現が生まれる。

その人がいなければ、その作品なり表現なりは、そもそもない。

50点のジョン・レノンとか、120点のピカソとかいう存在は(批評の修辞としてはありうるとしても)、現実的には存在しない。

ジョンがいなければその曲のすべては存在せず、ピカソがいなければその画のすべては存在しない。

才能に関しては、中間というものはありえない。


いちおう断っておくが、才能は「ある/ない」の二者択一しかないが、あるからといってそれがすべて万人にとって有効だということは言えない。

才能には、方向性と射的距離と深度がある。

ジョンやパブロの例を出したのはちょっと早計で、すべての才能が商業的ではないし、大衆性を持つわけではない。いつまで続くものなのかもわからない(ジョンが長生きしていても、単なる凡人になっていた可能性は、ある)。みんなにわかりやすく、換金可能なものばかりが才能ではない。歴史に足跡を残すものごとだけが才能ではない。


さらにいえば、才能がその所有者を幸福にするかどうかもわからない。もしかしたら、特別な才能などないほうが、一般的な幸せは手に入りやすいかもしれない。

しかも、才能のある人間が、みな自分の才能を自覚しているとも限らない。一握りの、ある種の異常な性格を併せ持った人間は、自分の才能を自覚して生きていけるのかもしれないが――そういう人は周囲から天才と呼ばれ、敬して遠ざけられるのかもしれないが――多くの場合、才能の持ち主もまた、不安に悩み、自分に不満で、半信半疑で生きている。

(つづく)


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