自分の本、やっと2018年分が終わった。
明日から2019年に入る。
どんな文章を書いているのか、チラ見せします。
まず冒頭に、過去のブログの引用をします。ここでは「2018年12月20日」のブログが引用されています。
その後「-----」で区切られた以降は、いまの自分が当時のブログを読んだ感想・回想です。
果たしてこんな内容のものを読みたがる人がいるのかどうか気になりつつも、自分としては可能な限り正直に丁寧に書き進めていくのみです。
◆2018年12月20日
▲今年はもう11日しかないらしい。
つい3日ほど前に会社を立ち上げたばかりなのに。
あれからもう9カ月も経とうとしているのか。
実際、今年はいろいろありました。
間違いなく、近年稀なほどに変化が激しく、また実に面白い一年間でした。
どうしてこんなに面白かったのか。
これはもう、人に恵まれたのが一番の理由であるとしか言いようがありません。
独立してひとりになった、何者でもない僕に付き合っていただいた皆様。
至らない点は多々ありましたが、皆様にご助力をいただけたことで、支えられました。
僕は今年一年、好きな人としか会いませんでした。
グーグルカレンダーの記載によって、たとえば今年の毎月1日になにをやっていたか振り返ってみると。
1月:正月。実家。
2月:前職時代。同僚と史料編纂所へ行き打ち合わせ。
3月:出版クラブで会合。辞めることを決めた直後だったのでスルーして部屋の片づけ。
4月:休日。アメリカ主張から帰国し、独立直後。機材・備品の設営。
5月:午前中にジュンク堂本店へ。午後は印刷所の営業担当者を訪問。
6月:マーシャル日記翻刻会議。
7月:「マラソン予備」と書かている。要するに、長丁場&連続の編集会議の予備日。
8月:丸善さんと面談。午後は前職の同僚と飲む。
9月:休日。さるイベントに参加。
10月:終日社内で仕事。翌日のトークイベントに向けて集客。
11月:著者と打ち合わせ&呑み会。
12月:午前中、映画初日。午後、打ち合わせ&呑み会。
一日一日は変哲もない日々です。
でも、楽しかった。
あなたがいたから、充実して過ごすことができました。
きみがそこにいるから、負けじとがんばることができました。
おかげさまで、ふらふらしながらなんとか生きています。
あなたたちがいるから、来年もまた楽しいでしょう。
わかっています。これはどうしようもない文章です。
しかもなぜか、なんだかもう死ぬみたいなかんじです。
まあいいや。
*
ずっとお付き合いいただいているある教授の研究室のドアにはホワイトボードがかけてあり、そこには
「生きて 生きるよー」
と書いてあります。
もう何年も、ずっと変わっていません。
可愛らしいような手書き文字で、マジックペンで書いてあるのでいつ消えても不思議ではないのですが、何年も残っています。
先日も久しぶりに研究室を訪れて、まだ残っているのを確認してきました。
生きて 生きるよー
-----
「なんだかもう死ぬみたいな」文章。
これを書いているいま、僕は吐き気に悩まされている。簡単に言うと、胃の中に胃酸が溜まり、肥大したがんが邪魔をして、それがなかなか下まで降りてくれない。それで胃が詰まったようになって吐き気を催すらしい。もちろん、実際に吐くこともしばしばある。
僕の人生は、単純に楽しく嬉しいというだけではなくなってしまった。
しかしそれでもやはり、この5年間がとても興味深いものだったのは間違いない。
それはすべて、ここに書いてあるとおり、人に恵まれたからだ。
直前に書いた山田南平先生もそうだし、他にも多くの方が身近にいてくださる。彼ら彼女たちに支えられて、僕は毎日を生きている。
ちなみに最後に書いてある「ある教授」とは、この当時上智大学の教授だった蘭信三先生のこと。先生の研究室のドアにはホワイトボードが架けてあり、そこには「生きて 生きるよー」という文字がずっと消されずに残っていた。
駆け抜けるようなテンションだったこの頃の記事を読むと、泣けてくる。
自分なりに感謝を伝えたくて書いた文章なのだろう。「なんだかもう死ぬみたいな」文章。
冗談を言っている場合ではない。あんた、本当に死ぬんだよ。4年後にはがんになって、死ぬことになってしまうんだ。嫌だろうけどしかたがない。そういうふうに決まってるんだよ。
ああ、吐きそうだ。
でもまだだ。まだ死なんよ。
生きて 生きるよー。
岡田さん、蘭です。
このホワイトボードの「生きて 生きてるよー」は、2011年の「3.11東日本大震災」後に研究室に戻った時に発見しました。誰が書いたのかわかりません。ゼミのOGOBの誰かか、研究室の前を通りすがった学生か、卒業生のだれか、一般の方が書いたのか、不明です。でも、いろいろな読み方ができる意味深なもので、なぜか消せませんでした。それに、そのうち、書いた本人がドアをノックして「生きて、ましたか?」と挨拶してくれるのかもと少し期待もしていました。しかし、だれもノックをしてくれませんでした。やがて、周囲の同僚も学生もホワイトボードのこの言葉のことを話題にすることもなくなり、それを自然のものとして受け止めていたようでした。しかし、岡田さんのこのブログを読んで、消さなくてよかったとしみじみ思っています。私の推測では、「生きて」は、何があっても「生きて」という大震災に被災した皆さんへの呼びかけであり、「生きてるよー」は「私も生きているよ、生きてるからね」という応答と読んでいました。
岡田さんと一緒に仕事した2018年。それまでに3冊の本を一緒につくっていましたが、その頃は『なぜ戦争体験を継承するのか』という挑戦的なタイトルの本を一緒に編集していましたよね。大川史織さんの『タリナイ』の上映会(たしか9月14日)後のオーバーカナルでの食事会の雑談のなかで、大川さんの『なぜ戦争を描くのか』という次作の構想を聞き、このタイトルを二人で決めたことを思い出しますね。このタイトルにしたことで、本の方向付けが決まりましたね。臥龍点睛というのでしょうか、このタイトルの効果と一部の論集と二部の平和博物館の紹介のという岡田さんの二部構成の編集アイデアのおかげで、この本はずいぶんと注目されましたね。そしてその懇親会時に、自分の来し方を振り返ってつぶやいた私の感傷に対して、岡田さんが放った痛烈な一言はいまも忘れません。その後の自分の生き方を考えさせられた一言でした。岡田さんの情熱的かつ軽快な仕事ぶり、10年近くになる共同作業のおかげで、もうこの頃はお互いに遠慮なくものを言う関係になっていたのですよね。多くのことを教えていただきました。
今月末に、『なぜ戦争体験を継承するのか』刊行記念シンポの記録が現勤務校(大和大学社会学部)の紀要に掲載されます。最後の岡田さんの豊かなアイデアと情熱ほとばしる挨拶を読み返し、ぐっとくるものがあります。
最後に、このホワイトボードの言葉のように、私は岡田さんへ、「生きて!」と呼びかけています。岡田さんの、「生きてるよー」という応答のこだまが響き続けることを心から念じて。