2019年のハノイ、雑踏の中のベトナム料理店で、遠藤さんから質問されました。
「自分の身体だけがあるとして、これがなくなったら自分の存在も消える、という場所はどこ?」
先日のB&Bでの土門蘭さんとのイベントでも話題にあがった質問です。
いまあらためてこの質問に答えるなら、目と答えます。
この回答は、遠藤さんと同じ。
(ハノイの夜では違うことを答えましたが、その回答はここでは重要ではないのでスルーします)
あらためて考えてみると、やはり目です。
もし目が見えなくなったら、おそらく僕は生きていく意欲を失うでしょう。
本を作るのは無理。それどころか、本を読むのも無理。
こんなふうになにかを書くのも無理。
料理も作れないし、映画も見られない。外を自由に歩き回るのも難しい。
かろうじて音楽だけは残されますが、自分にとって大切なことはほとんどすべてできなくなります。
もしそうなったらどうしようか。
たまに、目を閉じて歩いてみることがあります。
まっすぐな道で、向こうから来る人も車もいなくて、しばらくは目を閉じても絶対大丈夫だと思える時に、ちょっと目を閉じて歩いてみるのです。
そうすると、ものすごく怖い。
怖くてすぐに目を開けてしまいます。
耐えられるのは、おそらく2秒とか3秒とか、そんなごく短い時間だけです。
数メートルも歩かないうちに、目の前に何かが迫ってきているような気がして、思わず目を開けてしまいます。
でも考えてみれば、そういうことが起こる可能性はあります。
なんらかの病気や事故で視力を失う可能性はあります。
もちろん、そのように生きている方もたくさんいるわけです。
休日の朝に神宮外苑の絵画館の周りを走ると、よく目の不自由な方が走っています。
絵画館のまわりのランコースは車も通らず、道は舗装されていて、シンプルな円形なので走りやすいのです。
見常者が半歩前を走っていて、腕に通したゴムのタスキのようなもので、ふたりはゆるくつながっています。
断言してもいいですが、僕が後ろから追い抜いていくときに、目の見えないランナーは、僕のことに気づいています。足音や息遣いによって、周囲に起こっていることを察知しているのがわかります。
酒瓶に点字が刻まれていたので、何が書いてあるのか調べてみたら「おさけ」でした。
目を閉じてその点字を指先でなぞってみましたが、これが読み取れるようになるとはとても思えません。
日本の点字はわりとシンプルで、6つの点の配置で基本的には読めるようになっていて、しかもたった3文字ですが、どこに点があるのか、僕の指先はまったく知覚できないのです。
もしも目が見えなくなったら、耳がいまよりも敏感になり、指先の触覚がいまよりも研ぎ澄まされるのでしょうか。
もし目を失ったとしても、耳を頼りに堂々とランニングして、手に触れた瓶が「おさけ」だと知って嬉々として飲んだり、そんなふうに(今と同じように)暮らすことができるのでしょうか。
そのときは点字の本を編集したりするのでしょうか。
いまのところ、そんなことができるなんて全く思えないけれど、でももしかしたらできるのかもしれません。
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