数日前に吉行淳之介についてちょっとだけ書いたら、翌日に宮城まり子が亡くなった。
人気歌手・女優でありながら、ねむの木学園の創始者となった人で、訃報でもその社会活動に対して、非常に評価が高い。
マザー・テレサと並べて評するコメントすらあったくらいだ。
吉行はこの人のことを、いくつかの作品に書ている。
本棚のすぐ目に付くところに『湿った空 乾いた空』(新潮社)があった。
このなかで彼女はM・Mと呼ばれている。
もちろん、親しく接している作家にとっては、彼女は聖女などではない。
美しく、行動力があり、わがままで、愛おしく、嫉妬深く、素直で、ときに理解を超えている。
こういう人に愛された吉行は、やはり単純ではないなと思う。
吉行は妻帯者で、それでも宮城まり子と一緒に暮らしていたわけで、そういう部分に難癖をつけてふたりを倫理的に批判することはたやすいのかもしれない。既婚者の作家と有名女優の恋。もし当時SNSがあったら、確実に大炎上案件だ。
実際、いまの芸能人のように社会的に抹殺はされなかったものの、彼らも激しく糾弾されたはずだ。
しかし、小説とか表現とか(あるいは愛とか)を倫理的・制度的に云々してみてもしかたがない。
吉行と宮城まり子は、社会的人間として評価も批判も受けながら、人間として、自分の感情を真ん中において生きてきたのだろう。
社会に対してつっぱって生きた、とも言えるかもしれない。
先に取材した、吉行を愛読する女性の作家は、自分はフェミニストだし、もちろん戦争や暴力にも断固反対する、でも、そのために他者と共闘したり声高に論陣を張るつもりは一切ない、という趣旨のことをおっしゃっていた。
そういうつっぱり方は、吉行とも通じるものがあるような気がする。
僕自身も、吉行淳之介のそういう佇まいに影響を受けていると思う。
人間は単純ではない。
たまに思うのだが、マハトマ・ガンジーだって、たとえばちょっと信号無視したことくらいあるかもしれないし、マザー・テレサだってイライラして誰かに八つ当たりしたことだってあるだろう。
つい最近、ローマ法王が手を握って離さない信者をつい叩いてニュースになっていたが、そういうことだってあるだろう。
「キリストは笑ったか」という荒唐無稽な神学論争を背景にして展開するのは堀田善衛の『路上の人』だが、実在人物としてのキリストは笑ったことがあるに決まっている。
作家だろうが福祉活動家だろうが、聖人だろうが、みんな複雑で、ときに刹那的な感情をもった人間だ。
理路整然、首尾一貫して生きているわけではない。
「宮城さんは、平成6年に亡くなった作家の吉行淳之介さんと長年にわたって生活を共にし、お互いよき理解者として支え合い、ねむの木学園などの建設を実現させました」(訃報を伝えるNHKニュースより)
「傷付けられると、まるく蹲ってしまう人間もいる。その逆に、牙を剥き出して咆えかかってくるのが、Mの性癖である」(吉行淳之介『湿った空 乾いた空』より)
人は、このふたつの文章の間にいると思う。
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