• みずき書林

その日の日記

8月27日(金)


入院13日目。

この日は朝から調子がよかった。

珍しく目を覚まさないで朝まで眠れたし、粥の朝食もぜんぶ食べられた。午前中のリハビリも、リハビリ室まで5階分の階段を降りた後、3キロくらいバイクを漕げた。

数日前から、シャワーを浴びて髪を洗うこともできるようになった。

次の週には今野書店でのフェアが終わるから、せめてもの援護射撃としてtweetをした。諏訪敦さんの似顔絵を描いてアップ。そんなことができる気分になったと、我ながら嬉しかった。

お腹もそんなに痛まないし、いい感じだ。


昼食の前に担当のお医者さんが入ってきて、切除した大腸の検査結果が病理から上がってきたから、その説明をしたいと言われる。ついては、家族の方にも同席いただきたいと。

まあ、医者から家族も同席の上で話をしたいと言われたら、あまりいい気持ちはしない。でも、なぜ腸閉塞になったのかの理由の説明をしてくださるのだろう。

妻に電話し、16時に病院まで来てもらうことに。ついでに、爪が伸びているから、爪切りを持ってきてとお願いする。シャワーも浴びられるし、髪も洗えるようになったし、これで爪を切られれば、ずいぶんさっぱりするだろう。

最悪の可能性として、大腸癌かもしれないとは思った。でも僕は結腸右半切除といって、腸の半分を取っている。どんなに悪くても、「大腸に癌があったんだけど、今回の手術で結果的に切除しました」くらいの話ではないかと思っていた。


お昼も全部食べた。翌週中には退院できることもほぼ決まっている。

手術直後の前の週は音楽なんて聞く気はまったく起こらなかったんだけど、この数日はやっと音楽を楽しむ気持ちになっていた。

iTunesを探して、ウェイン・ショーターがミルトン・ナシメントと共演した『Native Dancer』というアルバムを聴いた。

はじめて聞くアルバムだったけど、ナシメントの天上的に美しい声と、ショーターの艶のあるサックスがとてもいい。どこか懐かしいような、童謡みたいな無国籍なメロディも味わい深く聞き飽きない。

すっかり気に入って、ベッドに寝転がって音楽を聴いていたらすぐに4時。

看護師さんに付き添ってもらい、1階の診察室に向かう。ロビーで妻とも合流。コロナで面会できないから、久しぶりだ。リハビリの成果か、かなり普通に歩けている僕を見て驚く。「忘れないうちに」と爪切りを渡してもらう。



診察室に入ると、ステージ4のがんだと言われた。

大腸癌ではない。この段階では、原発巣はわからない(それが胃だと判明するのは、さらに1週間ほど後の、退院後の検査でのことだ)。でもどこかで発生した癌が、大腸に転移しているのは間違いない。

ひととおりの説明を受ける。とても丁寧で懇切な説明。

何かご質問はありますかと訊かれて、「シビアな状況ですか?」と訊いたら、「残念ながらそうです」とのこと。

他に訊くべきことも思い浮かばない。

なんというか、悲しいとかショックだとか泣けるとか、そういうのでもない。後になって妻とも確認し合ったのだが、正直にいうと、このとき僕らはヘンなテンションだった。ドラマみたい、という陳腐な表現がぴったりかもしれない。よくある医療ドラマのなかにいきなり放り込まれたみたいな感じだった。どこか他人事みたいな。人生でも最大級クラスのシャレにならない宣告を受けたわけだが、どうにも実感がない。

気は高ぶっているが、その半面、なんだか空疎な感じだ。喉の辺りまで、重い空気のかたまりのようなものがせり上がってきている気がする。もしかしたらパニックの前兆なのかもしれない。一方で、なにか印象的なことを言ったりやったりしないといけないのではないか、みたいな、無内容なことをぼんやりと考えている。

とりあえず20分ほど妻とふたりで相談する時間を欲しいと、主治医と看護師さんに言ってみる。ふたりは席を外す。

妻とふたりになるが、ヘンなテンションは収まらない。妻は少し泣くが、僕は泣けない。泣いたほうがいいんだろうな、とまだそんなことを考えている。

よし。とにかく一回落ち着こう。

ともあれ原発巣がわかるまでは変に暗く考えすぎないこと。まずは来週、無事に退院して家に戻ること。それまでは癌の件はいったん中吊りにしておくこと。情報不足のまま、癌という事実だけを直視してはいけない。平らかな気持ちでやり過ごすこと。そんなことを確認し、えらいことになったのぉ、などと笑い合う。他にもいくつか、つまらない冗談を言い合う。よし、大丈夫だ。いつもどおり、呑気にへらへらやり過ごそう。ぜ。


コロナ対策で、診察室を出たら、妻はすぐに帰らないといけない。

エレベーターのところで別れ、妻はひとりで家に。

僕は7階の病棟まで戻り、やれやれと自室のベッドに座る。

原発巣は不明ながら、大腸に癌が転移している。

予想していた以上にヘヴィだ(1週間後、そのヘヴィさは、スキルスというかたちでさらにもう一段階レベルアップするのだが、このときは知る由もない)。

ついさっき、僕の人生はイヤな方向にずれた。

でも相変わらず、どう感じればいいのかわからない。


スマホをいじって『Native Dancer』を再生する。浮遊感がかっこいい。いまの気分にぴったり。でも、いまの気分てなんだ?

それから爪切りをとりだして、両手足の爪を切っていく。ベッドの上にティッシュを広げて。

切りたかったんだよな、爪。

足の爪を切るときに背中を丸めた姿勢はかっこ悪い。どんなイケメンでも美女でも、スタイリッシュに足の爪を切ることはできない。


癌の告知を受けて最初にしたことは、その朝たまたま見つけて気に入った音楽を聞きながら、爪を切ることだった。

なんてドラマチックじゃないんだろう。


それから夕食を食べた。ぜんぜん喉を通らない、ということもなく、全部食べた。

夜に実家の両親に電話をかけて、癌のことを伝えた。これは少しきつかった。でも僕の父は医者だから、冷静に受け止めてくれた。

電話のあと、親しく敬愛する著者が登壇する配信トークイベントを視聴した。

さらに、金ローで『風立ちぬ』をやっていたので、最後まで観た。見回りに来た看護師さんと、「今日はジブリなんですね~」「そうなんですよ~。この映画、よくわからないですけどね」なんて他愛のない会話を交わした。


そんなふうに、僕の人生がぐるっと回転した8月27日(金)が終わった。

なんてドラマチックじゃなかったんだろう。


でもこの日のことは、憶えているうちに書いておきたかったんだ。



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「わたしとはあなたでできている」

つくづく思うけれど、毎日、気持ちは変わります。 我ながら軽率なんじゃないかと思うくらい、気持ちは日々入れ替わります。 昨日はひどい気分でした。 今日はいい日でした。 それは午前中にもらった電話と、午後に会っていた人たちと、今日もらったいくつものメッセージのおかげです。 こうなる前までは、「大人は自分の機嫌は自分でとる」ということばに頷いていました。 毎日いろいろ起こるけど、大人たるもの、精神のバラ