フランス。洋行と呼ばれた海外旅行。新劇。コーヒー。
日本人にとって、そういったものが新しくて鮮烈な輝きを持っていたころ。
インスタントコーヒー、テレビドラマ。写真。コマーシャリズム。
そういったアイテムが新奇で賛否両論を起こしていたころ。
獅子文六作・五戸真理枝演出の『コーヒーと恋愛』は今から60年前、1960年代の大人のポップカルチャーを描いた、軽妙で楽しい作品でした。
「Rhythm of the Rain」などなど、いまは文字通り「オールディーズ」と呼ばれる当時の欧米のポップソングに日本語歌詞を付した曲が要所で歌われるのも楽しい。
敗戦から15年ほどしか経っていないころ、高度経済成長の真っただ中での純粋素朴なまでの西洋文化へのあこがれが、今となっては微笑ましくすらあります。
そしてそこに突然告白される、画家の異様に切実で重苦しい戦時体験。
歴史を知る我々は、この物語のほんの少し前に大きな戦争があり、高度経済成長のトリガーが朝鮮戦争の特需であったことを知っています。公害など高度経済成長がもたらすことになる弊害についても知っています。
個人的には、そういう歴史の流れの中にこの作品を置いて見るのも一興だと思いますが、まあしかし、この芝居を観るのにそんなに難しく考えることはありません。
ポップであやうい当時の明るい狂騒の雰囲気を楽しめばよいのだと思います。
とはいえ、そういう作品であるからこそ、それをいま上演することの意味もまた考えさせられます。
ここで描かれる女性性の問題と、愛にまつわるごくありふれたトラブルは、いまでも訴求力を維持しているようです。
ラストシーンで(公演はすでに昨日終わっているので、ネタバレを書いてもいいでしょう)、主人公のモエ子は自ら稼いだお金で、ひとりで洋行します。
いまの女性たちには――というか我々には――「洋行」ほどわかりやすく万人に訴える解決策・脱出経路は用意されていません。
しかし、愛の地獄に代表される望まない日々からの逃避経路は常にある、という真理は、時代が変わっても一定の力を持っていると感じました。
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ここでいささか飛躍しますが、僕は芝居を観ながら、現代美術家/工芸家の遠藤薫が言っていた「撤退戦」ということばを思い出していました。
「撤退戦は相手に勝つのではなく絶対に落としたくない城を守るために取られる戦法だと私は解釈しています。負け戦だとしても絶対に侵されたくないものを守るだけの戦い方」(『なぜ戦争をえがくのか』116頁)
モエ子は、撤退戦を戦うすべての女性の代表でもあるようです。
60年前当時の価値観からすれば、華やかな職業に就きながら年齢とともに衰えを感じさせられている女性。恋人の浮気に悩まされている女性。そして、自尊心こそが絶対に侵されたくない城だと思い極めた女性。
そのような女性(今風にいえば、女性だけに限定せず、社会の中で疎外感を感じているすべてのマイノリティ。と読みかえても通用すると思いますが)が逡巡の果てに展開する撤退戦を、獅子文六/五戸真理枝はあくまで明るくポップに描きます。
前向きに、軽やかに撤退していくその様は、神出鬼没な遠藤薫の美術活動にも通じるものがあるように見えます(これを書いている時点で、彼女は愛知県一宮で米軍のパラシュートを古民家から吊り下げ、その下で羊を解体し、羊と過ごしています)。
それゆえに、モエ子は自分の属性・アビリティを愛したに過ぎなかった菅を断固拒絶し、ラストシーンでは再度の求愛をほとんど無視に近いかたちで受け流します。
このあたりのバランス感覚はさすが当時の流行作家・獅子文六と思わせるものですし、いまこの難しい時代に、この芝居を深刻になりすぎない王道のコメディとして制作した演出家の意図もそのあたりにあったのではないかと推測しました。
つまり、女性性/マイノリティの撤退戦を寿ぐこと。
一部の心底幸福で自足した人を除けば、僕も含めた多くの人は、それぞれの人生において、それぞれの撤退戦を戦っていくものなのかもしれません。
勝てる見込みはありません。ただ、絶対に落としたくない自分だけの城を守ろうとするだけです。
モエ子さんを見習って、軽やかにしたたかに撤退戦を戦いたいものです。
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