7月2日の長崎新聞に、
「忘れられた慰霊碑 戦禍の記憶 75年の先へ」
と題して、赤誠隊について語る森山史子さんの記事が載っています。
(共同通信の配信記事なので、今後ほかの紙面にも載るかもしれません)
森山さんは大川史織監督のドキュメンタリー映画『タリナイ』に登場する方で、『マーシャル、父の戦場』にもコラムを寄せてくださっています。
この記事では、赤誠隊の慰霊碑について話をしています。
赤誠隊は戦中に法務省が結成した、受刑者による労働部隊。
1939年以降、2000人以上の受刑者と刑務官が、マーシャル諸島ウォッチェ島とテニアン島に送りこまれたとのこと。
ウォッチェでは主に飛行場建設を担いますが、食糧不足や熱病で死者がでます。殉職した刑務官の「言語に絶する苛烈な生活」ということばが残っています。
慰霊碑はその際に作られたものですが、数年前に森山さんが訪れた際には、民家の入口の足場として使われていました。
それを発見した森山さんは「見て見ぬふりをすれば、一生後悔するかもしれない」と思い、元マーシャル大使や法務省に働きかけて独自に調査を始めます。
しかしその一方で、「私は何か行動に移すべきなのか。それとも、何もすべきではないのか」と葛藤していたといいます。
この葛藤はどういうかたちをしているのでしょうか。
マーシャルの離島には当時の大砲や建物などがたくさん残っていますが、石碑も含めた戦跡は、日本は所有権を放棄しているので、すべてマーシャルの所有物だということです。
いまでも島民たちのなかには、当時の日本軍の建物を利用して生活している人がいます。大砲にロープを張って洗濯物を干したりしている生活風景は、映画『タリナイ』でも描かれます。
この石碑も、民家の段として使われていました。
老朽化した建物や不発弾の危険と背中合わせに、彼らは島に残されたモノとともに生きていかねばなりません。
それは、〈彼らのもの〉なのです。
しかし同時に、それは当時の日本人が、死者のために建てたものでもあります。
遠い地で死んだ同胞への慰霊の思いも、無視できるものではありません。
森山さんや大川さんなど、遺族と関わりながらマーシャルで暮らしたことがある方たちは、おそらくその気持ちをとてもよくわかっています。
記事の最後に「戦争を経験したことがない私たちにとって大切なこと」として、森山さんはふたつのことを知っておきたいと語っています。
ひとつは「遠い南の島で帰らぬ人となった人々の歴史」。
もうひとつは「その島に生きる人々の今」。
死んでいった人々の慰霊碑は、しかるべきかたちで保存されるのが望ましい。
いっぽうで、いまのマーシャルの人びとの暮らしのなかに踏み込むのは、どのようなかたちであれ、するべきではない。
このふたつの間に、森山さんの葛藤があったのではないかと思います。
本のコラムでも、森山さんは、
「時代の流れに翻弄されながらも強く生きてきた彼らのことを考えると、この島と、この島で生きる人々をそっとしてあげたいという気持ちがこみ上げ、慰霊の手伝いでこの島を訪れようとしている自分が、島の人たちの目には、どのように映るだろうかと、何となく後ろめたい気持ちになった」
と、このふたつの気持ちについて書いておられます。
彫刻家の小田原のどかさんは、「彫刻が一番輝くときは破壊されるとき」ということを言っています。
小田原さんは彫刻そのものの造形美や永続性を信じている人ではありません。だから「一番輝くとき」というのは「もっとも批評・言説を誘発するとき」という意味だと思います。
この赤誠隊の慰霊碑も、たとえば倒されることも人家に利用されることもなく、最初に建てられた場所に建ったままであれば、よくある風景の一部と化していたでしょう。それはそれで小声で歴史を伝えながらも、でも今回の記事に紹介されたように、マーシャルの今とつながる複雑な葛藤を感じさせる文脈をまとうまでには至らなかったでしょう。
長い歳月の中で倒れ、人家の一部になるという曲折があったからこそ、ただの記念碑という以上の批評性・歴史性をたっぷりと沁み込ませることになり、森山さんによって再発見されることになったのだと思います。
*
僕は森山さんに数度お目にかかったことがありますが、その短い時間に、この方が笑っているところも、歌っているところも、泣いているところも見たことがあります。
マーシャルと日本のかかわりについて考えている佐世保出身の人は、いまはノルウェーで暮らしています。
なんだか目まぐるしい人です。
委任統治・マーシャル諸島・法務省・ウォッジェ・受刑者・テニアンといったことばが続くこの記事の中で、「ノルウェー」という地名だけが浮いていて、なんだかそれが、この方の豊かな感情と行動力と自由さを物語るようです。
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