薄暗い地下道で、アコーディオン弾きの男が、東欧風の陽気なような物悲しいような単純なメロディを奏でています。
人びとはその前を通って、奥にある地下道の出口へと向かっていきます。
出口は明るく輝いていて、露出過多で四角い光にしか見えません。
暗い地下通路の向こうの光に、人びとが吸い込まれていきます。
あるいは、その光から影のようなものが生じてきて、人の輪郭になり、やがて全き人のかたちになって画面のこちら側へとやってきます。
松本智秋さんがあるトークイベントで流していた画像です。
どこかの国の空港に通じるトンネルのなか。だったと思います。
その光と影のコントラスト、アコーディオンの響きが、奇妙に印象に残っています。
そして以下は、彼女の本『旅をひとさじ』の最後のページに載せた写真です。方南町にあった智秋さんのアパートのキッチン。
奥付の後に1頁余ることがわかり、「最後の写真を何にしよう」と相談したときに、「智秋さんが旅に出ている間、誰もいない部屋の写真はどう?」と提案したのでした。

智秋さんの帰りを待っている部屋。
今年の6月末、僕は東京を離れる彼女の引っ越しを手伝うために実際にこの部屋を訪れ、この写真に写っているキッチン用品を段ボールにつめたのでした。
そのときが、智秋さんに会った最後になりました。
あるいは以下の写真。
ウジェーヌ・アジェの《英国ベネディクト会の旧修道院、サン・ジャック通り269番地》1905年。

ウジェーヌ・アジェがどんな人物なのか、まったく知りません。
ただ、この無人の写真にもなぜか惹かれるものを感じます。
直線と曲線の絶妙な取り合わせ。かつて多くの人が昇り降りしたであろう階段。廊下の奥の四角い光。
もう一月ほど前に観てきた、恵比寿の都写美で開催されていた『メメント・モリと写真――死は何を照らし出すのか』の展示からです。
同展示の図録よりもう1点。

リー・フリードランダー《ボブ・ブレックマン、ニューヨーク・シティ》1968年。
例によって、リー・フリードランダーが誰なのか、被写体であろうボブ・ブレックマンが誰なのか、知りません。調べてみようとも特に思いません。
ただ彼の表情がなぜか忘れられません。人は、自分だけのとりとめのない物思いに沈むときに、こんな姿勢でこんな顔をします。
勝手に、この男は病んでいるのではないかと想像するのです。
住み慣れた部屋で、自分の病についてふと考え込んでしまい、不意に自失している男。
まるで僕自身のようだと思うのです(我が家は手前にいるのが猫ではなく犬ですが)。
最後に。
これもまた僕にとっては重要な「死を想う」イメージです。
この写真はサイトの画面撮りをさせていただいていますが、より克明なイメージは諏訪敦さんの画集もしくはこちらのページから観ることができます。
《father》1996年

僕がはじめて「スキルス胃がん」という病名を耳にしたのは、諏訪さんからでした。まさかその2年後に自分がその病になるとは想像だにせず。
諏訪さんの父親を取り囲む病室の雰囲気や調度・アイテムの数々は、入院経験者には馴染み深いものです。シーツの折りたたまれ方、チューブの曲がり具合、点滴をしているときの腕の位置、病室を照らす漂白されたような均質な光。
僕もつい最近まで、このような格好で仰臥していました。これからもこの姿勢をとることがあるでしょう。
お父様の表情に、自分自身の顔をトレースしてみます。
すると、画家の視点と同化して、まるで死後の世界から自分自身を見ているように錯覚されるのです。
その先が見通せないほどの光。アコーディオンの音色。
無人の、あるいは妻と犬がいる部屋。
どこも似たような、世界中の病室。
そのようないくつかのイメージが、いつの間にか頭の中に折り畳まれています。
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