横浜シネマリン、本日から1週間の上映です。
本のチラシとポップを持って、劇場の方にご挨拶してきました。
昨年の冬にも公開されて、そのときも本を置いてくださいました。
そのころ、9カ月前に書いたテキストが残っていたので、一部改変してアップしておきます。
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12月8日、横浜シネマリン。
今年の秋から冬にかけて、いったい何度この映画を観たでしょう。途中から数えるのもやめましたが、最近ポケットやカバンのなかから、あきれるほど次々と映画の半券が出てきます。
でも、少なくとも今年は、今日が最後の鑑賞かもしれません。
シネマリンは来週も続きますが、いろいろ予定が立て込んで、残念ながらもう行けそうにありませんから。
次のカットや台詞を記憶するほど何度も観ているのに、その度に感じたり気づいたりすることがあります。
たとえばこの映画の最初と最後には、テーブルいっぱいに並んだ料理の画が映されます。
最初のものは和食で、最後のほうのはマーシャルの料理です。そして言うまでもなく、冨五郎さんは食べるものがなくて栄養失調で亡くなっています。
たくさん食べることが父への供養だから、と勉さんは言います。恐縮なことに、亘理のお米や林檎をたくさん送ってくださいます。
最初と最後に、いっぱい並んだ料理の画を配したことは、冨五郎さんへの供養でしょうか。
いまから書くことが、センチメンタルすぎる空想だということはわかっています。もしかしたら、こういう勝手な空想をもてあそぶことは、あまり好まれないかもしれません。でも、もし冨五郎さんがどこかでこの映画を観ていたら、監督たちのチームが勉さんと一緒にやりとげたことを見たなら、冨五郎さんは心の底から感謝し、涙を流すことでしょう(あの勉さんのお父さんですからね、きっと冨五郎さんは涙もろい人です)。
冨五郎さんは、自分の書いた日記が家族の元に届きさえすればと願っていたことでしょう。それすらも、極めて低い可能性しかないこともわかっていたはずです。まして、その日記が全文解読されて本になるとは、映画になって多くの人の目に触れ、心に届くとは、想像できたはずがありません。
彼は自分の日記が家族以外の人たちに読まれることを喜ぶでしょうか?
このような映画として、本として読まれることを、彼は喜ぶだろうと、僕はほとんど確信しています。
自分の死後の家族の暮らしを、金銭面に到るまで事細かに具体的に心配し、
元気デ、ホガラカニ、オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ
と書き残した冨五郎さん。
勉さんがいつだって映画を作った仲間たちをもてなそうと一生懸命なことを知ったなら。みんなが冨五郎さんへの強い思い入れとともに「元気デ、ホガラカニ」この映画を作ったことを知ったなら。
彼はきっと本のカバーそっくりに嬉しそうに笑って――僕たちは彼がどんなふうに笑うかを知っています――それからきっと、映画の勉さんそっくりに声を裏返らせて、泣くでしょう。
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