昨日の続き。
小泉明郎「Dreamscapegoatfuck」より、VRインスタレーション《Sacrifice》のこと。
視界を覆うヘッドセットを装着して、ヘッドホンをつけて椅子に座ります。
そして、9歳のとき目の前で家族を殺されたイラクの若者、アハメッドの身体と一体化します。
イラクの部屋の一室。アハメッドの――つまり我々の――視線の先には、誰も座っていない椅子が並んでいます。頭をめぐらせると、壁にはいくつかの肖像写真が飾ってあり、頭上には扇風機が回っています。
背後には、アハメッドにカメラを取り付けてこの状況を作った作家の気配すら感じられるようです。
画面には英語の字幕が流れますが、それ以外は、アハメッドの視界そのままです。
オマル、アフマド、フセイン……。
アハメッドは死んだ人たちの名前を呼び、彼らを描写していきます。
背が高かった。小さかった。いつも白いスポーツウェアを着ていた。がっちりした奴だった。よく僕と母を訪ねてきたんだ。
死んだ人たちを表現しながら、身振り手振りが入り、そのたびに画面にアハメッドの腕が映りこみます。
我々は、その手の動きに合わせて、実際に自分の手を同じように動かしてみます。
この作品に限らずVRを体験したことのある人にはよくわかる感覚だと思いますが、彼の腕にあわせて自分の腕の動きを重ねあわせるとき、実際に腕が熱を持ちます。
目の前に見えている腕が、自分の腕だとリアルに感じられるのです。
動きがぴったり重なったときに、脳が彼の腕を自分の腕だと錯覚し、画面上の彼の腕と、体温をもった自分の腕が感覚の上でひとつになるのです。
彼はオマルの名を呼びながら、彼を両腕で抱きしめるしぐさをします。
そして視界が彼の腕で覆われて暗くなります。抱きしめるしぐさのまま、顔を覆ったのです。
両腕の隙間から、床の模様が少しだけのぞいています。
まったく同じ動作をして、両腕を重ねてうつむくと、戦慄が背中を走りました。
喋っているのは、もちろん彼です。僕はアラビア語は喋れません。
しかし僕は、アハメッドとまったく同じ視点で、まったく同じものを、見ています。
我々はアハメッドとひとつであり、あるいはアハメッドは我々に分裂しています。
「彼らと一緒に死にたかった。
これが僕の身体。それを感じることができるだろうか? 僕はそこから抜け出したいと思っている」
そしてある瞬間、不意にアハメッドが画面に現れます。
まさに目と鼻の先、すぐ近くに彼がいます。
この瞬間、我々はさっきと全く同じ位置に座っていながら、アハメッドのほうが我々を抜け出して、我々の目の前にいます。
膝を接する、という言い方がありますが、彼の膝が僕の膝にめり込んで一体化しているくらいの近さです。
いかにもイラク人らしい、細かくカールした黒髪。顔の下半分を短い髭が覆っています。黒くて大きな瞳と濃い眉毛。当時9歳ということは、おそらく25歳かそれより少し上。ほっそりしていて、黒いTシャツを着ています。
ほんの3センチくらい先に、彼の高い鼻梁があります。
その至近距離で、彼は死んでしまった人たちのことを、一言ずつ呟くように語ります。
彼と我々が切り離され、彼が目の前に現れるこの場面の挿入こそ、小泉明郎という作家の真骨頂かもしれません。夢のような、無意識下のようなシーンです。
彼ら全員を失った日のことをずっと忘れることができない、と彼は言います。
そして、にもかかわらず、アハメッドは彼らひとりひとりに語りかけ、そこにいるかのように手を伸ばし、抱きしめようとします。
「I miss you」という単純な字幕を、なんという日本語として考えればいいのでしょうか。
アハメッドは、あたかもそこにいるかのように、すでにいない彼らに語りかけ、我々は今ここにいないアハメッドの身体に入りこんでいます。我々は、バーチャル空間のなかでそこにいない人を恋しく思うという、二重の不在を経験することになります。
「これが僕の身体。僕は抜け出したいと願ったまま、ずっとそこに閉じ込められている」
その思いに応えるように、彼の頭部に装着されていたカメラが取り外されます。
先ほどの夢のような切り離し方ではなく、その撮影現場で、ちらっと視界に入る作家本人によって実際にカメラが外されます。
つまり、我々の視点は彼を離れます。
作家がカメラを外し、床に置きます。
我々は首だけになって、床に置かれます。ありえない視線の低さです。体はどこに行ってしまったのか。地面にめり込んでしまったようで、喉のあたりに圧迫感を感じます。
まるで砲弾でバラバラになったオマルかフセインかの頭になったように(その感覚は否応なく、床に転がされた作家の息子の頭部を連想させます。ヘッドセットを外せば、そのオブジェはすぐそこにあるはずです)。
左を見上げると、アハメッドが椅子に座ったままうなだれています。我々は彼を見上げ、彼が立ち上がってゆっくりと部屋から出ていくのを眺めます。その背中に声をかけてみても、あたりまえですが無意味です。
*****
ふたつの作品を体験して、最終的に考えざるを得ないことは、加害と被害についてでした。
最後にそのことについての感想を、ちょっとだけ書いておきます。以下は政治的な話ではなく、徹頭徹尾個人的な話になります。
いまのところ、僕は直接的な被害者でもなく、加害者でもありません。この国に暮らしている多くの人がそうなのではないでしょうか。
(重ねて書いておきますが、これはこの国およびその軍隊が、外国に対してどういうかかわり方をしているか、という話ではありません。僕は直接人を殺したことがなく、また本当に近しい人間を殺された経験も持っていない、という意味です)
そしていまのところ直接の当事者ではない我々がすべきことは、被害へのフォーカスなのではないでしょうか。「我々がすべきこと」という言い方はフェアではないですね。「僕が考えるべきことは」と書くべきでしょうか。
直接の当事者ではない僕が考えるべきことは、被害へのフォーカスなのではないかと考えました。
加害と被害という二項に、国家と個人という二項を乗じると、とても複雑なことになります。ある場合には被害者は加害者でもあり、簡単に結論がでるような話にはなりません。
そこで――あくまで僕個人としては――個人と被害、という点を出発点にしたいと思いました。
もちろん、だからそれ以外の組み合わせのことを考えない、ということではありません。あくまでどこを思考のスタート地点に据えるか、ということです。
単純化しすぎることになるかもしれませんが、《Battlelands》の多くの兵士たちは、個人としては被害者でした。《Sacrifice》のアハメッドとその家族はいうまでもありません。
〈戦勝国〉という言い方はありますが、〈戦勝者〉という言い方はほどんどされません。とりわけ近代以降は、そんな人間はいないのです。
いったい誰のために、何のためにこんなことをするのでしょうか。
フセインに、アフマドに、オマルに、家族の写真をもったまま黒焦げになった男に、大切な人を代入せよ。
アハメッドに、イラクで市民を射殺して復員後に自殺した戦友に、ライフルをもって怯えた少女を見下ろしていた男に、自分を代入せよ。
小泉明郎の作品は、そんな代入を求めてくる作品でした。
昨日のブログで僕は、
「そのとき、どうする。」
と書きましたが、そのときが来てからでは遅いかもしれません。
でも、否応なくそのときは来るかもしれません。
明日暴力によって人生が不意に終わることを、あるいは人生がずっと続くことを、想像せよ。
小泉明郎の作品は、想像することを求めてくる作品でした。
《Battlelands》と《Sacrifice》は、体験しないために体験する、という作品でした。
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