3月1日(日)は神話研究会@筑波大学東京キャンパス。
来月、沖田瑞穂先生の新刊を刊行する関係でお誘いいただきました。
沖田先生は相変わらず旺盛な執筆活動中。
この日の発表も、新潮社から刊行される『神話の復権』の執筆内容を紹介しながらの、インド神話についての発表でした。
〈少女母神〉という先生の造語に関する応答が興味深いものでした。
詳細な説明は僕の手に余るのでごく大雑把に説明してしまうと、少女と母が同居しているものを〈少女母神〉と名付けておられます。
『銀河鉄道999』のメーテルの正体が、実は後頭部に母親の顔を持つ、少女=母親であること(知らなかった……すげえネタバレ)。
FGOのキングプロテアというキャラクターが、体長7メートルほどの巨人でありながら幼い少女であること(ちなみにキングプロテアはもともとは大きな花をつける植物)。
……などの例とともに〈少女母神〉という概念を紹介します。
(ちなみにキングプロテアのことを聞いて、『七つの大罪』のディアンヌを思い出しました。彼女もまた、幼女の姿をした巨人であり、嫉妬の罪を背負っていたのでした)
発表を受けて、〈少女〉の同義的なことばとして、神話学では〈処女〉〈乙女〉という概念がしばしば用いられることが、フロアから指摘されていました。
なにゆえあえて〈少女〉と命名したのか。
これについては、先生方の議論をうかがいながら、日本のポップカルチャーにおける「ロリコン」というものが加味されているのではないかと思いました。
〈乙女〉からは、たとえばアーサー王物語の湖の乙女たちが想起されますが、〈少女〉とは微妙にニュアンスが異なります。
乙女たちは多くの場合、幼い少女ではなく、成熟した女性の外見をもっています。低く見積もっても、10代後半から20代前半くらいのビジュアル感ではないでしょうか。
それに対して、上述のキングプロテアやディアンヌは、明らかに10代かそれ以下の〈少女〉の造型です。
メーテルも鉄郎の姉的存在なので、あの容姿と相まって大人びたイメージがあるかもしれませんが、原作ではあくまで少女として描かれ、行動しています。
この幼い少女 meets 母性というのは、速い話がロリコン崇拝であり、もっとも有名なのは例の風の谷の子でしょう。
もしかしたら紫の上を引っ張り出すことも可能かもしれません。
ロリコンとは、男性の、育てたい願望と、育てられたい願望(=叱られたい願望)のコンプレックスだと思いますが(違っていたらすまん。僕はノンケなので)、〈乙女〉ではなく〈少女〉ということばづかいを選んだ背景には、そういうニュアンスが含まれているのかなと考えた次第です。
(ちなみに、サブカル方面にも言及しようとする際に、〈処女〉という言い方がしっくりこないのは、言うまでもありません。性交体験の有無は、日本の萌え世界ではぜったいに見て見ぬふりをしなければならないポイントです。萌え世界の住人たちにとって、対象となる女性キャラは、同好の士が多数いることを知りながらも、自分ひとりのものでもあるという幻想で包んでいないといけないから(違っていたらすまん以下同))
関連して、同じくフロアからララァの名前が挙がったのも納得でした。
ララァは10代半ば頃でしょうか。幼いくせに、ひどく大人びたもの静かな女性です。
いい年したシャアは、彼女を育てる保護者を演じながら、同時に彼女のなかに母性を見出します。
「ララァ、私を導いてくれ……」というセリフは有名です。
アムロもララァと精神的な交感を行い、それに嫉妬したシャアが割って入ったことでアムロはあやまってララァを殺害、そのことがシャアとアムロの最大の因縁となっていくのは、いまさら言うまでもありません。
ここでシャア論をはじめると量的にひどいことになるので避けますが、ララァがあきらかにインド系のビジュアルをもっていることも、沖田先生の論に関係があるのかないのかわからないままに、付言しておきます。
〈少女母神〉という造語の背後には、このような複雑微妙な(?)日本のポップカルチャーにおけるロリコン感があるのではないかと思った次第です。
(こんなこと、おっかなくて質疑応答でいう勇気はありませんでしたが)
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