• みずき書林

想像と実践の入口――『職業作家の生活と出版環境』

更新日:6月20日

和田敦彦編『職業作家の生活と出版環境――日記資料から研究方法を拓く』(文学通信)

を読む。


本書は榛葉英治という作家の創作と生活を、彼が残した膨大な日記から読み解く本である。

にもかかわらず、メインタイトル、サブタイトルはおろか、帯文にすら「榛葉英治」という名前が一切出てこない。

出版社サイドが決めたのか、編者・執筆陣が決めたのか、この点がまず上手いな、と思わせられた。というのも、いま榛葉英治という作家を知っていて、その作品を読んだことのある読者はほぼ皆無であろうから。かくいう僕も、この企画とそれに先行する『城壁』(文学通信、2020年)で初めてこの作家を知った口である。榛葉英治は生前にはそこそこ知られていたのかもしれないが、とはいえ第一級の作家という評価ではなく、直木賞作家であるにもかかわらず、没後はほぼ忘れ去られた存在である。


その不遇感は、榛葉英治を大々的に取り上げている本書でもあまり変わっていないのが、憐れといえば憐れと思う向きもあるかもしれない。

とはいえ、本書の本当の主役は榛葉英治でもなければ、彼が残した日記でもない。

「はじめに」で編者の和田は「特定の作家を研究するというスタイル自体を問い直してみたいという問題意識から」書名に榛葉英治の名を冠さなかったと書き、「作家を、文豪といった神聖化されたリストに加えたいわけでも、またその著述を名作として再評価したいわけでもない」と断言している。

では本書の目的は何かというと、これも本書冒頭で書かれる通り、「文学研究の方法や資料について、新たな地平を拓いていくこと」である。

より具体的には「(日記によって得られる)生活者としての作家の情報をもとに、出版・読書環境を浮き彫りにする、あるいはその変化をとらえる」ことであり、「その時期の流行や出版環境、経済状況といった諸々の、いわば「不純」な要因と関係し合ったものとして作家や小説の価値をとらえること」である。

いわば本書の主役は、その方法論そのものである。

自身の日記と作品群と生活が、このような研究の対象になったと知ったならば、泉下の榛葉英治は恥ずかしさに身を捩りながら、そのような存在として自分の全体が永続し得たことに、どこかで満足の笑みを浮かべるのではないだろうか。


さて、では作家の日記を用いるという古くて新しい研究手法を主軸に据えた本書では、何が新しいく提示されるのか。

実際のところ、榛葉に関してのみ言えば、日記からうかがえるのは、経済的にうまくいかず、飲酒について意志薄弱で、他の流行作家にルサンチマンを抱えた、言ってみれば「あの頃の作家の一類型」が見えてくるにすぎない。

たとえば以下。


「榛葉は「もっとも通俗的な意味で、作家も俳優と同様、人気商売であり、ファンをもたなければならないこと、もっと世の中で「もて」なければならぬ」ことを自覚していた」(田中論文)


「『乾いた湖』では(中略)「学生で小説を書いて、今は自家用車を乗りまわしている。あいつは、ぼくらの英雄だな。北海道の無名の女の書いた小説が、ベスト・セラーになる。かれらは、一千万の金を握ったな」と石原慎太郎と原田康子の『挽歌』が、金銭を得るための小説として半ば揶揄をこめて語られている」(中野論文)


「文を生業として生活する、または家族を養うという極めて実際的な問題に直面する一方で、通俗的に消費されてしまうことへの抵抗感や危機感が強くにじむ」(河内論文)


「「満洲はおれだ。(司馬には、杉森にも書けない)」」(大岡コラム)


本書第2部の日記抄を読めば、この手の記述には枚挙に暇がない。

切実で、でもその存在自体がいささか類型的で通俗的な、いまひとつ売れない作家が浮かび上がる。それ自体は珍しくもなければ新しくもない。


だがそのように浮かび上がった作家像は、和田をはじめ執筆陣の意図とは無関係である。先述のように、彼らは作家論がやりたいわけではない。

ここでの新しさは、上記の複数の引用が示すとおり、異なる問題意識をもって榛葉日記に取り組んだすべての論者が、結果として同じ人物像に辿り着いた、というそのこと自体にあると思われる。


性、創作におけるモデル論、文芸メディアのなかの自己、映画と原作、引き揚げ体験、釣りと、それぞれの切り口と問題意識によって、各論は成り立っている。

そのすべてを横断する日記という共通資料によって、榛葉英治という作家――というよりも人間――が、立体的に、かつ統合された像を成して立ち上がってくる。

言ってみれば、本人不在の中で、周囲の証言と遺留品のみから、本人像が浮き彫りになってくるように。

あるいは、データを解析して入力することで、何もない空間にARめいた3D画像が描かれていくように。

そのような立体像を示し得たことが、本書の面白さであり、日記資料を用いた研究の新しさではないかと思う。


よって、本書は必然的に、この方法が榛葉以外にも適用可能であるかどうかを問うてくる。

もちろん、条件さえ整えば、それは可能である。

そのことを想像してみることが――もしくは実践してみることが――本書が提供する最良の読後感のひとつかもしれない。

文学よりも歴史により関心のある僕の観点から言えば、本書は文学研究の本というよりも、歴史学におけるエゴ・ドキュメント研究に近く、さらにその可能性を拡張した実践事例として読まれるべきのような気がした。

たまたま榛葉英治が小説家であったため、また執筆陣に文学研究者が多いために、本書は文学研究の書棚に配架されることになろう(Cコードも0095だし)。しかし実際には、より広範なフィールドで応用されるべき成果であろう。


つまり、同じ方法をもって、たとえば、

『職業建築家の生活と制作環境』

『専業俳優の生活と公演環境』

『専任教員の生活と研究環境』

『職業画家の生活と創作環境』

『海軍軍人の生活と戦場環境』

などといった研究を想像して検討してみること。

そういった想像と実践の入口に導いてくれる本である。


*


最後に全くの余談ながら、僕が真っ先に読んだのは、実は「第2部 「癌」という病――癌に関する記録」という日記抄であった。

生涯の半分くらいをがんに怯えまくりながら過ごした榛葉は、結局終生がんに冒されることはなかった。

「ノドの入口に、異物感があり、ガンではないかと気になったが、この一週間の酒びたりで、ノドが荒れたのかもしれない」

といった本人にとっては切実な、しかし読み手にとっては呑気な記述があるのみで、がん患者にはほとんど何の役にも立たないことを付言しておく(笑)。