早坂暁先生が亡くなって、今月の16日で一年が経ちました。
今でもよく覚えていますが、その日の朝に僕は先生の訃報を知り、やや呆然とした気持ちで、銀座で上映されていた大林宣彦の『花筐』を観に行きました。
『花筐』の巨大な壁画のような映像美と作風に圧倒されながら、早坂先生の死が、映画のなかに色濃く漂う死の匂いを強めていたのは間違いありません。
戦争の時代と広島という町と、映像と文章に深いかかわりをもったふたりの作家について思いを馳せながら、銀座から広尾まで歩いて帰り、家の近所の居酒屋でずっとひとりで飲んでいました。
以下は、その日から翌日にかけて書いたテキストです。
最近、早坂先生のことを思い出すことがあったので、昔書いた文章に陽の目をあてて、先生への1周年の追悼とします。
(今となっては奇妙な符号ですが、『夢千代日記』『華日記』『「戦艦大和」日記』など、早坂先生の代表作には「日記」をタイトルに冠したものが多くあります)
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先生が亡くなった。
88歳、いずれこういう日が来ることはわかっていたが、寝床の中でニュースサイトを見て、来るべき日が来たと知った。
昨日の昼、外出先で倒れてそのまま亡くなったという。
これまで山ほど病気をして入院してきたのに、最期は苦しまずにあれよあれよという間に逝ってしまったのはいかにも先生らしい。もしかすると、死ぬ間際に実際に、あれよあれよ、と呟くくらいはしたかもしれない。
飄々として暖かく、いつもユーモアを忘れず、楽天的だった。無根拠に楽観的なのではなく、酸いも甘いも噛み分けたうえでの実感に基づいた、いわば地に足のついた楽天家だった。その仕事はテレビや映画の脚本をメインとして、ドキュメンタリー、小説、エッセイと多岐にわたる。テレビや映画の脚本家とは、締め切りに追われながらたくさんの人を巻き込むプロジェクトの起動をする役割である。テレビドラマの黎明期を支え、多くの名作ドラマを生み出した。
また、詳しくは書かないが、私生活においても渋谷のホテルを住まいとして、最晩年まで破天荒というか自由気ままに過ごした人だった。仕事においてもプライベートにおいても、自由に生きる代償としてのその苦労や努力は大きなものであったに違いない。しかし先生はいつもにこにこ笑って、ときにこちらが苛立つくらいに余裕だった。先生ヤバイですよ、と言うと、そうかそうかヤバイですか、と僕の焦った顔を見て笑っていた。
訃報を伝えるニュースによれば、そして先生が主に活躍した時代である昭和的な言い方をすれば、「温もりのある目線で庶民を描き続けた」。格差も貧富もいまほどではなく、庶民といえば私たちみんなのことだと通じあえた時代だった。そのことを、元号も変わった晩年の12年ほどお付き合いしていただいた僕が言い換えるとすれば、笑い方を教わったということになる。嬉しいとき楽しいときは言うに及ばず、苦しいとき、腹の立つとき、悲しいとき、ヤバイとき、大人はどのように笑えばいいのかを教わり続けたような気がしている。
こういうことは時間が経つと忘れてしまう。覚えているうちに、先生との思い出を書きつけておこう。
最後にお目にかかったのは2か月前だった。大病をして入院していた直後で、ずいぶん痩せていた。
ふらりと会社に現れて1時間ばかり雑談をした。僕が編集した広島の原爆を撮影した写真集のページをめくりながら、「可哀そうに」と何度も繰り返し呟いていたのを覚えている。
その後、周恩来について調べているとのことで、神保町にある東亜高等予備学校の石碑までお連れした。普通に歩けば5分程度で着く距離だが、すっかり足腰の衰えた先生には20分ほどかかった。もっとも、町を歩くときに関心のあるものに出くわすと、立ち止まっていつまでも眺めているのは、元気だったころからの癖だから、一概に足腰ばかりのせいにはできない。植木鉢や室外機などがごちゃごちゃと続いている細い路地の入口を興味深そうに覗きこむこと二度、路上でマンホールを開ける工事の作業を眺めること一度。そういうものを興味津々の顔で見つめるのは、昔から変わらない。
石碑に着いてからも、石碑の文字は言うまでもなく、周囲でタバコを吸う人々やら冬枯れた花壇やらをいつまでも飽きずに眺めている。とても高名な脚本家には見えず、どこからどう見てもヒマそうな老人に過ぎない。
とにかく人間とその暮らしを見つめて観察する。それが先生がドラマを生む秘訣だったのだろう。
それから、駿河台下にいまも残る、周恩来が行きつけにしていた中華料理屋にも足を伸ばしてみるつもりだった。しかし途中まで歩いたところで先生は疲れてしまい、喫茶店に入ってお茶を飲んで別れた。
神保町の交差点でタクシーに乗る前に、先生と僕は握手をした。中華料理屋にはいつか昼飯でも食べに行って、ついでに周恩来について何か耳寄りな話がないか聞いておきますよ、と僕は言った。ありがとう、よろしくと先生は言った。
それが最後にお目にかかったときのことだ。
先生は若い頃に交通事故にあって嗅覚がなかった。乗っていた車が事故にあって意識不明になり、気がついた時には病院のベッドで寝ていた。
目覚めたとき、なにかがおかしいと思ったが、それが何なのかわからない。明らかだが特定できない違和感を感じながらしばらく経ったときに、不意に気づいたという。
嗅覚がない。
それ以来40年ばかり、先生は匂いのない世界で暮らしていた。たとえば視覚を失ったり手足を失ったりすることに比べれば、切実ではないかもしれない。外見的な変化もないから、周囲の同情や共感も得られにくいだろう。
一見して悲惨には見えないかもしれない。でも、失われたものは二度と戻らない。そういう喪失感のあり方は、いかにも先生的だ。
ねえ知ってますか君、嗅覚がないとね、松茸なんてただのゴムだよ。先生はそう言って笑い、美味しくもなんともなさそうな顔でコーヒーを啜った。コーヒーなんてただの苦いお湯だよ、君。
あるいはまた、先生は同郷の先輩である、とある華道家を支え、その晩年の面倒を見ていた。この華道家もまた、花の道の異端として世界的な名声を得た、実に個性的な天才だった。
しかし晩年は身寄りもなく、痴呆に苦しんだ。生まれつき脊椎に障害があり、極めて小柄だった。
先生は彼を引き取り、郷里の老人ホームに入れるために奔走した。
その最晩年に、先生が老華道家を見舞い、一緒に昼飯でも食べようと誘ったときの話だ。華道家の好物は、郷里の味であるうどんと、その世代にとっては東京のハイカラな食べ物であったカレーだった。
「お昼でも食べに行こう。うどんがいい? それともカレーにしようか? どっちが食べたい?」。聴覚の衰えた華道家の耳元で、先生はやさしく怒鳴った。
華道家はしばらく考えて、やがて小さな声で言った。
「カレーうどん」
このエピソードを語ってくれたときの、先生のいかにも楽しそうな表情を覚えている。
それからまもなく、老華道家は亡くなった。喋りながら大笑いしていた先生も、もういない。
先生のいろいろな笑顔を思い出す。
公園通りを歩きながら、ゴスロリの女の子の集団に無遠慮な目線を投げていた先生。あんまり見ないほうがいいですよと言うと、ああいう娘たちは見られたくてああいう格好をしているんだよ、と微笑んだ。
広島の老舗お好み焼きソース会社の本社ビル屋上で、広島市街を一望しながらお好み焼きのフルコース(この世にはそういうものがある)をご一緒したときの、ご満悦な笑顔もよく覚えている。広島にゆかりの深い人だった。
書店でサイン会をしたときは、読者のほとんど全員に気さくに話しかけすぎるためにちっとも列が減らなかった。閉店時間が近づき僕と書店の担当者はやきもきしたが、先生はまったく意に介さずに、お客さんひとりひとりとの対話を楽しんでいた。
事務所には、いつも何十匹もの猫がいた。ほとんどが怪我をした野良猫か、引き受け手のいない仔猫だった。そんな猫をなによりも可愛がった。野良猫、ということばは使わず、自由猫ということばを好んで使った。
昨日、奥様から電話があり、先生の最期について聞いた。いつもと変わらない朝をゆっくりと過ごし、先生と奥様はお昼を食べに出た。2日後に検査入院の予定だったので、美味しいものを食べて英気を養おうと、あるホテルのなかにあるお気に入りのトンカツ屋さんを目指した。ホテルに着くと、ロビーには巨大なクリスマスツリーが飾ってあった。それを見上げて、ああ綺麗だね、と言った直後に倒れた。
緊急搬送されたが、そのときにはもう亡くなっていた。クリスマスツリーを見たのが最後だったか、倒れた後に私の顔を見たかどうか、と奥様は言っていた。
猫と対話と人間観察をこよなく愛した先生。
おわかれです。
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