「この日記はだれにむけて書かれたのか考えてみよう」と先生から問題提起がありましたね。
冨五郎さんは、読まれることを意識していたのか。
意識していたとしたら、誰に読まれることが念頭にあったのか。
この問いは、逆方向から考えてみることもできると思います。
つまり、彼は我々に読まれることを意識していたでしょうか?
これはすぐに答えられる問いですね。
冨五郎さんは、自分の書いた日記が、70年後に見ず知らずの他者に読まれることになるかもしれないとは、まったく意識していなかったでしょう。
74年後に、自分の日記が本になり、映画になること。
大学の授業で取り上げられ、皆さんのような二十歳前後の人たちが冨五郎さんの気持ちを推し量りながら講読すること。
そんなことになろうとは、冨五郎さんは想像だにしていなかったにちがいありません。
でもあなたたちは、出会うはずのなかった日本兵に出会いました。
出会うはずのなかった人に出会い、知るはずのなかった場所を知ってしまったという感覚は、来週以降、映画を観ることでさらに強まるでしょう。
そういう感覚は、いつか甦るかもしれません。
学生時代に受けた授業なんて、ほとんどが忘れ去ってしまうものです。
何年か経ったら、憶えていることはほとんどありません。
でも、自分でも予想もしていなかったときに、不意にその感覚がよみがえることがあります。
(僕にもほんの僅かですが、こまぎれに憶えている授業の記憶があります)
これから生きていくなかで、たとえ一瞬でも、みんなで読んだ冨五郎日記を思い出すことがあればいいなと思います。
たとえばお腹空いたなと思ったとき。
デートで海辺に行ったとき。
そんなときに、学生時代に授業で、飢えて死んだ日本兵の日記を読んだことがあることを、ウォッチェの青い凪の映像を見たことがあることを、ぼんやりとでも思い出すことがあればいいなと思います。
難しいことをいいはじめればキリがありません。
学問は深く、歴史は複雑で、とりわけ近現代史は理解ではなく分断を生んできた側面があります(そのことは来週あなたたちが観る映画でも示唆されます)。
でも歴史を学ぶことの、日記を読むことのもっともプリミティブな効能はきっと、出会ってしまった人を憶えている、ということです。
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