與那覇潤さんより、新刊『歴史がおわるまえに』(亜紀書房)をご恵投いただきました。
ありがとうございます。
まだ通読できていませんが、冒頭付近を拝読し、フランクルの『夜と霧』を連想しました。
心理学者がホロコースト/ショアに投げ込まれ、(本人の努力もあるとはいえ)偶然にも非常に稀な生還者の側に転がってああいう本を残したことは、現代から振り返れってみれば、ナチスが唱えた歴史の〈必然〉なるものに、小さいけれど致命的なひっかき傷を負わせたように感じています。
(それを指して「歴史の勝利」あるいは「人間性のかすかな勝利」と呼ぶことは、與那覇さんは肯定しないでしょうけれど)
『夜と霧』は個人あるいは群衆の心理について書かれたもので、歴史学の本ではありませんが、たしかに歴史の中に位置づけられる存在だと思います。
與那覇さんも、同じような立ち位置の本を書いていくのかもしれません。
大学で歴史を講じたのちに病を得られ、そこから生還したという体験から、歴史(学)に傷跡を残すという、特殊かつ普遍的な役割を担われていくのだろうなと感じました。
かつて完全なホームグラウンドであった歴史学に対して、アウェーの立場に身を置くことになったからこそ、ある種の自由を手に入れられたというか。
学的な素養と膨大な知識に加えて、病気によって得た、「そうして生まれる関係が、能力によって選抜された(はずの)人びとが織りなしていた大学という場所のそれとは、比較にならないほどの無私と高貴さによって彩られていたことを、私は生涯忘れることはないでしょう」と語る経験。
その経験こそは、かつて『中国化する日本』によって若くして寵児になり、そのままいけば学問界・論壇でスター研究者になっていたであろう著者が、なおも歴史学を考え続ける強固な動機になっているようです。
寺尾紗穂さんの『あのころのパラオをさがして』の次のような一節も思い出しました。
「あることが気になってしまった門外漢」が調べ、表現を発信するとき、そこには興味のなかった人を引きずり込むエネルギーの渦が生まれるような気がしている」
與那覇さん(や寺尾さん)は「門外漢」ではありません。
ふたりとも――とくに與那覇潤という学者は、かつては所属していた学的機関に所属していないというだけで――実際には専門家であるための訓練を徹底的に積んだ学究です。
ただ、所属機関がないというだけで、つまり学的組織に軸足を置いていないだけで――「在野」「門外漢」とみなす傾向が、学問界にはあります。
上述のような、個人的な体験から普遍に至ろうとする動機の貴重さとはまた別に、そういう立場の貴重さという意味でも、與那覇潤という学者がきわめて面白い存在として再び立ち現れてきつつあると実感されます。
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